2018年圧縮編03 ~夏の京、赤提灯と夏空に響くお囃子~
どうも、休みの日は寒すぎて毛布に侵食されている既望路です
もはや私が毛布か、毛布が私か、それもとも私は私か(正解)
こんな寒い日には鍋でもしながら日本酒をちびちびとやりたいものです…
山梨で買ってきた笹一がうめえっ!!
さて、最近のトピックスでありますが、前回ちょろっと出てきた通り、モニタを買い替えました
元々あったのが、5年前に友人氏よりPCと一緒に買い受けたAcerのモニタ
スペックとしては
サイズ:23インチ
解像度:フルHD(1920*1080)
パネル:TNパネル
W*H*D:542.2*391.4*157
といったごくごく普通のスペックのモニタ
特に不満はなかったのですが、もう少し広く作業したなぁと思い買い替え
当初はフルHDを増やしてデュアルディスプレイにでもとも考えていましたが、机のスペースが限られる*1&オープンワールドのゲーム(ポケモン)を買ったので広い画面でゲームしたい、ということで27インチぐらいのを購入することに落ち着く
で、欲しい機能や予算からいくつかモニタをピックアップして、お馴染みの表を今回も作成
(備考欄は割りと雑)
そして選ばれたのが…
Dellのやつでした
スペックは上記の通り
サイズ:27インチ
解像度:QHD(2560*1440)
パネル:IPSパネル
W*H*D:611.6*510.1*174.7
決めては高さ調節とモニタ回転でした(いつだって決めては使わない機能)
2画面はキツイけどデカく広く使いたいということで、丁度いいとこ攻めの27インチQHD*2
撮った写真の整理もPCで行うということもあり、パネルは折角なのでIPS*3
4Kは…趣味の世界かな?ということで今回はパス(
感想としてはやっぱり発色がいいし、撮った写真見返すのが楽しくなる
しかし日々のPC業務で目ん玉が酷使されている故、普段はかなり光度を落として使用というオチ
そして解像度が上がったので作業領域も拡張
これで右にブログ、左にWikipediaスタイルの完成だ(
なお一番画面の広さを実感したのは在宅でエクセル開いたとき
あとベゼルが細くなり、画面そのものは大きくなったものの、随分とスッキリとした印象を抱きます
ベゼルレスいいぞぉ
そんなこんなで、この新たなモニタでバリバリと更新していきたいと思います(言うだけならタダ)(だからといって別にフラグ立て放題なわけでもない)(無論嘘ついていいわけではない)
ついでにもう一個
PC・モニタと一緒に買い取ったROLANDのスピーカーがとうとうお亡くなりになったので(聞けば1997年製と大先輩。よく頑張った)
数ヶ月ぐらいイヤホンジャックだけで生活していましたが、やっぱりゲームを機に購入
選定理由は友人のおすすめという至極単純な理由
(困ったらとりあえずオタクの言う事聞いとけ)
小さいながらもしっかりとした音質を出してくれる頼れるスピーカー
置くとこんな感じ
ん?机にあった上の棚?
モニタと干渉するので取りました(
(環境が機器に合わせるんだよっ!!)
というわけで、新編PC周りでした
さてさて
前置きが済んだらさっさと本編に参りましょう
今回は前回同様、圧縮編になります
予定では7月だけの予定ですが、思ったよりスカスカならそのまま8月も…?
どうなるかは未来の自分の脱線芸次第!( *4
ではどうぞ
2018年7月24日
ラジオ体操のカードぶら下げて仲良く歩く小学生
— 既望路 (@after_full_moon) 2018年7月23日
ラジオ体操行って二度寝していたあの頃が懐かしい
そう、僕もこれからラジオ体操に向かうんだ
— 既望路 (@after_full_moon) 2018年7月23日
決して昨日出しそびれたレポートを提出しに大学に行くわけじゃないんだ…
というわけで、連日の期末レポートで乱れた生活リズム引きずった徹夜明けで京阪電車
交野線ホームには、通学とは逆方面故に登場から一年経つもほとんど見る機会がなかったライナー
2017年の夏より、枚方市始発淀屋橋行きと樟葉始発淀屋橋行きの2本が登場した、ラッシュ時はほぼニートの8000系を用いた全席指定の通勤特急
300円課金することで社畜と学生と早朝からクソデカキャリーケース引きずって乗り込んでくるワケわからん外国人観光客満載のすし詰め特急から開放されるエレガントな車両です
18年9月から運行区間が出町柳~淀屋橋に拡張されましたが、この時はまだ枚方市(樟葉)始発の時代です、はい
そんなライナーを他所に、出町柳行きの特急に乗り込んで向かった先は大学…
ではなく、祇園
どうせ朝出しても夕方出しても一緒なので、少し散歩していきます(
写真は長きにわたる改修工事を終えて遂に姿を見せた南座
江戸初期に開かれた劇場を起源に持ち、400年の歴史をも持つことから「日本最古の劇場」とも称されます
現在の建物は1929年の築桃山風デザインの鉄筋コン造りで、登録有形文化財にも指定されています
いまもここで歌舞伎を見ることができます
見たことはない
さて、この祇園のエリアは京都一の繁華街*5とも呼ばれるエリアでありますが、過去に遡れば八坂神社の門前町として栄えていた歴史を持ちます
江戸初期には八坂神社や清水寺へ参詣する参拝者向けのお茶屋*6が増え、大和大路通や四条通に面した祇園外六町や、その東寄りに位置する祇園内六町*7によって花街が形成されました
そんな祇園のエリアは祇園甲部と祇園東部*8に分かれ、前者の甲部は更に「南地区」と「新橋地区」にざっくり分かれます
特に祇園甲部の方は京都五花街*9の中でも最大の規模を誇ります
で、こちらが四条通を八坂神社方面に歩いていると右手に現れる花見小路通
上記でいう「南地区」に当たります
歴史的景観保全修景地区とやらにも指定されている、昔ながらの趣きが感じられる地区で、今でも多くのお茶屋が軒を連ねます
そして夜にはやb高そうなお車もよく停まっています
そういうこともあり、日中は常に観光客で賑わう京都有数の景観エリアですが、その歴史は大正時代に入ってからと意外と浅いです
というのも、元々この通りがある一帯は江戸時代までは南端に位置する建仁寺の境内でした
それが、明治初頭に起きた廃仏毀釈*10の煽りで境内が縮小、町地へと転換*11
このエリアを譲り受けた八坂女紅場*12は、京都復興策*13の一つとしてここに歌舞練場を建て、都踊りによる復興を目指しました
また、大正元年に敷かれた法規制により、これまで四条通や大和大路通で営業をしていたお茶屋*14は撤退を余儀なくされ、ここ花見小路に移転
そうして花見小路は、京都一の花街に発展するに至ります
現在でもここのエリアの多くが八坂女紅場による所有で、建物の外観に関しても厳しい意匠基準も設けられているとか
(この花見小路通の景観も、歴史的景観保全なんちゃらというよりかは、この八坂女紅場による維持管理の賜というべきなのでしょうね)
ちなみにですが、写真の通りが「く」の字に曲がっているところが丁度、江戸時代からあった道(手前側)と、花街形成の際に造られた通り(奥側)の境目だとか
今度は四条通を北に上り新橋、巽橋の辺りへ
さっきので言う「新橋地区」に当たります
こちらは国の重要伝統建築物群保存地区に指定されているエリアで、こっちもこっちで観光客に人気
白川のせせらぎ、石畳、茶屋と「京都」らしさいっぱいのエリア
観光客もそうですが、ブライダルフォトでも人気のスポット
こんな感じですかね、違いますかはい。
細い路地を独特の様式を持つ町家建築が挟む、風情ある一角
車止めを超えると途端に雑居ビルが所狭しと立ち並ぶスナック街に早変わりするので、その辺含めなんとも京都的(
というのも、元々は花街でしたが(今も花街ですが)、1960年代以降にスナックやバーなどのお店あとエッチなお店がこの地区に乱立し、景観が様変わりしてしまいました(南側は八坂女紅場がセーブかけていたので維持)
それに歯止めをかけるべく打ち立てられたのが「重要伝統建築物群保存地区」への指定で、今ではそのお陰もありこうして風情たっぷりな景観が楽しめるわけです
(それでも上の写真のように、エリアを一歩出るとその街並みはガラッと変わってしまいます。私はそういうところも含め、なんだか好きなわけですが)
このエリアに建つ建物の特徴は、何と言ってもその一定の建築様式でズラリと並んでいる姿
平入切妻造*15*16で桟瓦葺*17の2階建てで、一階部分には紅殻格子*18、少し背の高い二階部分には張り出した縁側と目隠しの簾…
京都町家建築をベースに、お茶屋仕様に特化*19した特徴を備えた茶屋建築
外壁沿いの犬矢来*20もまた、そんな京都らしらを更に際立たせている気がします
ちゃんとしたブライダル
あかん、写真に陰キャが写り込んでまう
新橋通り界隈は規制によって景観が維持されるようになりましたが、今度はその景観求め観光客がいっぱい来るようになり、最近ではマナーの低下から別の規制が色々出来始めています
うーん京都(
ごちゃごちゃしてるのもそれはそれで好き
こちらは先程名前が少し出てきた「八坂神社」
素戔嗚尊を祀る京都の中でも強い神社
門前には「祇園祭」の幟が上がっていますね
さて(さてじゃない)、この「八坂神社」と幟の「祇園祭」、そして「祇園」の地名
当然、単なる偶然ではありません
まずは「八坂神社」についてですが、これについては単純で、ここの地名が「八坂郷」だったから
では「八坂郷」の由来は何だと言われれば、それは…
8つの坂*21があるから「八坂」だとか、いやいや8つの坂は後付けで、単に坂が多い地域だから「八坂」(八百万の神の"八"的な)と呼ばれていただとか、本当は平安時代以前にここに八坂氏という渡来系氏族が住んでいたことに由来するだとか、いやいや本当は呪術的な意味合いを持つ語に由来するとか*22、あまりはっきりはしていなさそう(
余談ですが守矢神社に御わすガンキャノン神様も"八坂"ですが、こちらは建御名方神とその神である八坂刀売神が元ネタなのでまた別です
まあ、そんな八坂にある八坂神社ですが、「八坂神社」と呼ばれるようになったのは、明治時代の神仏分離令以降
なのでそう呼ばれ始めて、まだ150年ぐらいしか経っていないということですね
そしてそれ以前に呼ばれていた名前が「祇園社」(もしくは「祇園感神院」)です
「祇園」と聞けば思い出すのが、『平家物語』の冒頭にある「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」の一文ですが、この「祇園精舎」がまさに「祇園」由来です
祇園精舎とは古代インドにあった釈迦の寺院(僧坊)で、須達という釈迦ガチ信者の富豪によって寄付されました
寺を建立する際、須達は祇陀という人の園林を私財で買い取ったため、そのお寺は2人の名前を冠して「祇樹給孤独園精舎」(どこの南阿蘇鉄道や)、略して「祇園精舎」と呼ばれるようになったとか(「給孤独」は「給孤独長者」という須達の呼び名)
(園林お買い上げの際、須達「この園林ええやん、売ってや」、祇陀「いる面積だけ金貨敷き詰めたら、その額の分だけ売ったってもかまへんで(冗談)」、須達「よっしゃ敷き詰めたらええんやな!お釈迦さんのためなら安いもんやで!(金貨敷き敷き)」、祇陀「え!?ホンマに敷き始めよったわこいつ()。ええわええわ、譲るわその土地(にしても釈迦ってそんな凄いんか…)」というやり取りがあった)
で、この祇園精舎を守護する神様が牛頭天王という仏教の神様で、以下のようなエピソードがあります
牛頭天王は武塔神という北海の神の姿でこの世界に現れ、その姿は7歳にして2.3m弱の身長で、牛の頭と赤い角を持つという異形そのもの
そんな見た目ゆえ嫁さん候補も中々マッチングせず、ついに南海*23の八大龍王*24の一柱である娑枷羅竜王の元まで嫁探しをしにいくことに
その道中、宿を借りようとその土地の長者の元を訪ねたら、なんと却下よ却下ど却下でした
アテにしていたホテル長者インを門前払いされあわや快活か24時間営業のガスト泊かと思いきや、その長者の兄が心優しくも泊めてくれました
後日武塔神は、貧しいながらも宿を提供し暖かくもてなしてくれたその兄の元を訪れ、疫病を逃れられる方法を伝授(なんて心優しい)
で、逆に宿を提供してくれなかった弟の方は一族諸共疫病で皆殺しの刑(鬼畜かよ)
そんな心温まるハートフルストーリーが、『備後国風土記』という現在の広島県東部の地理書に描かれています
海外の説話とちゃうんかい
と突っ込みたくなりますが、これが牛頭天王のエピソードとして紹介されるています
鎌倉期編纂の『釈日本紀』では「武塔神は牛頭天王の垂迹*25」と記載されますが、さてどこまでが本当やら
そして、牛頭天王の由来についてはこの国産の伝承ぐらいで、なんと仏教の神と言っておきながらインドや中国・朝鮮では信仰されていた痕跡は見当たらないとかいう()
(つまり異国の神を装っておきながらがっつり日本産。天津飯かよ)
そもそもの武塔神についても、一体何の神仏が元ネタになったのかはさっぱり()
まあ、そんな祇園精舎から見ればお前誰やねん的な牛頭天王ですが、彼、なんと備後国風土記の中で「吾は速須佐雄の神なり」といきなり突拍子もない自己紹介をしているんですよね(厳密には牛頭天王ではなく、武塔神ですが)
・・・
「荒ぶる神」繋がりでしょうか、ついに武塔神を介して牛頭天王と素戔嗚命が繋がっちゃいました
お前がスサノオになるんだよっ!!
牛頭天王は龍蛇の神で、蛇繋がりで八俣の大蛇を倒したスサノオと結びついた、という説もあったり奥は深い…
(牛頭天王の結婚相手は龍王の娘で、その姉妹には雨乞いで有名な善女龍王がいる。また八坂神社本殿の下には青龍の棲む穴があるとされていたり、やたら「龍(蛇)」のワードが出てくる)
ともあれ、そんな武塔神であり、疫病を封じたり使役したりする神であり、祇園精舎の守り神であり、なんなら疫病繋がりで薬師如来の垂迹であり、摩訶陀国の王舎城の大王であり、陰陽道の天道神であり、天竺北方に城を構える異国神であり、密教の武答天神王であり、加え朝鮮由来の神説もあったり、メソポタミアやエジプト文明の神概念の流れも汲んだ神だったり、もうなんでもありな神様
ここでは、疫病を司る神という面でここ八坂の地に祀られることに
まあ、それすら当初は「祇園天神」として祀られており、「牛頭天王」「素戔嗚尊」として祀られるようになるのは鎌倉以降になってから…という説もあり中々一筋縄ではいかない模様
なんやかんやでいつも通りしっかり逸れていきましたが
ここの「祇園」の地名というのは八坂神社に由来するわけですね
祇園の名が素戔嗚尊の本地である牛頭天王が守護していた祇園精舎に由来…というのは(なんの疑いもなく)知っていましたが、改めて祇園精舎との繋がりを見ていくと中々綺麗には繋がっていかないものですね…
再び大通りへ
一体いつからあるのでしょうか
流石に日も高くなり、四条通にはバスバスバスバス…
坂を登って振り返れば、みんな大好きThe Kyotoスポット
これがあればとりあえずチュートリアルはクリアできる
あとは10連次第っ…!!*26
ちょっとでも派手な外観をしようものなら、たちまち木の板で封印されるゴリゴリ景観地区*27
早朝は人がいなくていいですね!!!!
皆さんもクソ痛デートごっこがしたいなら、オフシーズンの早朝がいいでしょう(
その道中左手には、二寧坂
看板の示す通り「二年坂」の別称もあり、「二年坂で転ぶと労災認定されて二年は是正処置で現場に出れなくなる」という恐ろしい言い伝えもあります
足元注意ヨシ!
で、こちらが産寧坂(三年坂)
新橋地区同様、伝統的建造物群保存地区に指定されており、厳しい景観条例が敷かれています
二年坂が二年間の是正処置なら、こっちは三n(もういい
正しくは「転べば三年以内に死ぬ」ですが、これも八坂神社と清水寺がお互いに「そっちは危ないから行くな」と参拝客の取り合いをしたことに由来するとかしないとか
まあ、「産寧」の由来については産寧坂の上にある清水寺に、泰産寺という安産にご利益のある塔頭があり*28、「お"産"が安"寧"に終わりますように」と祈願されたことに由来するのが通説
あのまま産寧坂を登り清水寺方面に向かっても良いのですが、手前で東に逸れ、維新の道へ
結構きつめの坂を上ると、護国神社の鳥居が見えてきました
気持ち逸れて、維新の道とクロスする階段へ
「龍馬坂」の愛称がある坂道で、坂本龍馬・中岡慎太郎の葬送の列はここを通って、霊明神社*29に向かったとか
そしてこちらは「京都霊山神社」
明治天皇の命により創建された、幕末の志士を始めとする、国のために命を落とした者たちを祀る神社
靖国の先駆的神社ですね
ここでは坂本龍馬や中岡慎太郎、天誅組などの維新のために尽力し命を落とした者から、日清・日露・日中・太平洋の戦火の中でその生命を散らした英霊が祀られています
ラバウルの石
赤道を超えた日本の遥か南方に浮かぶ島々もまた、かつては過酷な戦場
八坂神社や清水寺にほど近いエリアではありますが、とても静かな場所です
坂を下ると高台寺の足元へ
元は大倉喜八郎*30の別荘にあった望楼閣で、大雲寺*31がこの別荘地に移転*32した際に自動的に大雲寺の境内の建築物に
五重塔のような寺院のような祇園祭の山鉾のようなその奇抜なデザインは、築地本願寺や両国の震災慰霊堂も手掛けた伊東忠太による設計で、喜八郎は、金閣・銀閣に続く銅閣を目指したとかなんとか
ともあれ、THE和風~を極める東山エリアで異色を放つ昭和建築も、今では立派な(?)京都の風景
そして戻ってきた八坂神社
八坂神社といえば四条通に面する西楼門がでかい顔(なんなら本殿以上に)していますが、何気にこっちの南楼門が正門
うん、怖くないよ
えーと八坂神社は素戔嗚尊という神様の他に、櫛稲田姫と八柱御子神も祀っています
櫛稲田姫という神様は、素戔嗚尊の妻*33で、明治以前は牛頭天王の妻である頗梨采女が祀られていました(妻繋がり)
もう一方の八柱御子神という神様は素戔嗚尊の8柱の子で、八坂神社では八島篠見神*34、五十猛神*35、大年神*36、大屋比売神*37、抓津比売神*38、宇迦之御魂神*39、大屋毘古神*40、須勢理毘売命*41の8柱がそれに当たります(八島篠見神以外は別の嫁との子とか言わない)
分離令以前は牛頭天王の8人の子供(眷属とも)である、八王子権現*42が祀られていました(牛頭天王→素戔嗚尊のシフトチェンジ時に、八王子権現に合わせてとりあえず子供8柱集めた感も否めない)
そんな3柱がこの本殿で祀られているわけですね
大丈夫です、別に脚注全部読まなくてもどこにも法外な契約条件結ばせる項目なんて書いていませんので(
で、この本殿ですが、なんとなくこのツヨツヨな外見からもご察しの通り、2020年に国宝に指定されております
つまり行った当時はまだ国宝指定されていないということですね!!
同じ神社建築でも、その様々な様式があり、この八坂神社では「祇園造」という八坂神社でしか見られない様式で建てられています
その最大の特徴は、本殿(神が鎮座する社殿)と拝殿(本殿を拝むための社殿)を一つの屋根で覆った造りで、かなり仏教寺院に近い建築様式といわれています
といっても、文章だけで解説するにも筆者作者共々限界があるので、気になる方は下記をどうぞ
さて、八坂神社を後にし、向かったのは四条河原町
なにやら厳重な守りが敷かれています
ブチギレ行政、遂に本気のマイカー規制を繰り出す――☆
パトカーも出動
市内をマイカーで移動しようとする観光客絶対許さないマン
そしてその奥から姿を表したのは山鉾
他県ナンバー観光客を片っ端から摘発して全部淀川に流そうとしていたわけではなかったみたいですね良かった良かった
そんなことされたらただでさえゴミまみれなゲフンゲフン
先頭をゆくは「橋弁慶山」
本来鉾の順番は毎度くじで決まるのですが、いくつかの鉾は古例に従い順番が決まっています
この橋弁慶山も、その「くじ取らず」の一つで、後祭の先頭を務めます
牛若丸と弁慶が五条大橋で闘う場面を表現した山で、像はそれぞれ1563年(永禄6年)*43の製作
弁慶像が着用している甲冑も室町時代作のものでしっかり重文指定と、流石動く美術館と呼ばれることはあります
側面の刺繍は、江戸時代に描かれた葵祭の図(刺繍は平成に復元新調)
まだまだやってきます、大きいの
「北観音山」
こちらもくじ取らずで、2番目固定シルコレいうな
文和2年(1353年)*44の創建で、楊柳観音*45と韋駄天*46を祀る曳山
天明の大火*47で観音像が顔を残し焼失(後に修復)、江戸後期にかけては町内に三井家*48や伊藤家*49があったことからどんどんと豪華になり、今では立派な千鳥破風の屋根を持つように
豪華絢爛な、19世紀のペルシャ絨毯や17世紀の中国明の絨毯を纏い、気持ち大人しめカラーのパチ屋前をゆっくりと進む
そして振り返れば少し大人しめカラーのスギ薬局
このカオス感が好き
先述の通り今でこそ立派な屋根を持った曳山ですが、元は簡素な屋根を持つだけだけで、火災による幾度の復興と化政文化*50の流れで次第に豪華になっていったとかなんとか
「黒主山」
謡曲「志賀」を題材に、大伴黒主*51が桜の木を眺めている場面を表しています
人形は寛政元年(1789)*52製作で、正面に五爪龍文様錦(萬暦帝*53即位の錦を復元)、側面は草花胡蝶文様とこちらも艶やか
「鯉山」
鯉は江戸時代初期の製作
前、左右、後ろ共にベルギーのブリュッセル*55で制作されたタペストリーを裁断して作られたもので、「イーリアス」のトロイア戦争の場面を描いているとか
(重文指定で、巡行時はレプリカを使用)
「鈴鹿山」
鈴鹿権現の伝説*56*57をモチーフとし、御神体も鈴鹿権現(瀬織津姫)*58
前に駱駝、左右に桜と紅葉、後ろに文化13年(1816)*59購入の中国明代の雲龍文様・天啓2年(1622)*60の紺紙金泥文字・明治35年(1902)*61の牡丹鳳凰文様刺繍を伝えていましたが、現在は昭和57年新調のハワイの蘭花図だそうで
めっちゃグローバル*62
山鉾もそうですが、曳き手の衣装も各山鉾で違ってきていて面白いですね
金の烏帽子に大長刀を持つ鈴鹿御前(強そう)
身長は176cmとかなりスレンダー(強そう)*63
— 既望路 (@after_full_moon) 2018年7月24日
猿猴橋町とかそのへん
おっと、またデカいのがノッシノッシとやって来ました
「南山観音」
北山観音と同じく「楊柳観音」を本尊に、脇侍に「善財童子」*64を祀ります
本尊の楊柳観音は恵心僧都源信*65作と伝えられているそうですが、天明の大火で頭部以外を焼損(故に首より下は復元)、善財童子は江戸時代作のもの
元は北山観音共に隔年で巡行していましたが、明治以降は共に毎年の巡行となっています
その後ゆくは「役行者山」
御神体は「役行者」「一言主」「葛城神」の三柱で、葛城山の石橋の話をモチーフとしています
「役行者」は「役小角」とも呼ばれる飛鳥時代にいたとされる人物で、修験道*66の創始者とされています
その役行者は、雲に乗ったり鬼を使役したりする神秘パワーを操ることができ、ある日、何を考えたのか葛城山と金峰山の間に橋を架けようと計画*67
早速、葛城山の神を集めて「文武天皇3年度葛城山大峰山第一橋梁(仮称)架橋工事」を施工するも、葛城山の神である一言主が「姿を見られるのが恥ずかしい」と夜の間しか働かず、日中の労働を拒否
「いやいやいや、もう今年度の予算で完了まで計画組んでるんで、今期中に仕上げてもらわんと困るんですわ。ただでさえ夜勤手当で予算も余裕無いんですから、昼間も休まんと働いてもらわんと困りまっせほんま」と役行者が労基法ガン無視のブラック労働を強制するも、一言主は拒否
それにキレた役行者は一言主を労基に駆け込む隙も与えず呪術で縛り付け、そのまま谷底に放置プレイ
「こうなりゃもう闘争だ」と一言主は人に乗り移り、当時の天皇に「役行者が謀反を企てている」と託宣させ、結果、役行者は監督を降ろされ伊豆に左遷されました
という出来事がありました
あれ、適当書きすぎて全然ありがたみが無くなったぞ
まあそれで、「役行者」は『続日本紀』や『日本霊異記』にも出てくる仙人みたいな人で、鬼神を使役したり、呪術で病気を治癒させた伝説を持ち、修験道で崇められている存在です
もう一柱の「一言主」は賀茂氏の氏神で、葛城山山麓の葛城一言主神社を総本社とする一言主神社にて祀られています
『古事記』では、一言主に出会った絶賛鹿狩り中の雄略天皇が、持ち物を献上してその場を立ち去ったというエピソードにて登場しますが、『日本書紀』では天皇と共に狩りをして楽しみ、『続日本紀』では天皇の怒りを買い流罪に、『日本霊異記』では先述の通り、ブラック現場に投入されて、ストライキの末谷底に放置プレイという衰退っぷり
Wikiさん曰く賀茂氏の地位が時代を経るにつれ下がっていったことに由来するとか
山鉾では、鬼の顔で手に斧を持った姿とされています
うん、ここまではいい(良くはない)
お次は「葛城神」です
山鉾では輪宝を持った女神なのですが、これがよくわからん
「葛城の神」という葛城山に住まう神がいますが、その葛城神が指しているのは、隣で鬼の面をしている「一言主神」とイコールの存在
じゃあ、この女神は誰?となるわけですが、一方で能の演目に『葛城』という話があり、そこには葛城の神と称する女性が登場
その女性は「昔、役行者の依頼で橋を架けようとしたが、それが成せず役行者に蔦葛で縛られている」と語り、主人公である山伏に助けを乞います(今度は束縛プレイかよ)
山伏が女性を助けるために祈ると、女性は葛城神としての真の姿を見せ、舞を舞ったのち暁の光とともに自身の姿を恥じて消えてゆきました
という流れなのですが、ここからは葛城神は女神として見ることができます
(まあ、「女神」という設定については、天照大神の岩戸隠れが踏襲されているが故のものとも考えられるわけですが)
更に、この葛城山の架橋を題材にした後世の和歌においても、葛城神は自らの姿を恥じる女性として取り上げられている場面が見られるそうです*68
それなら鬼の形相をした神こそ何者?となるわけですが、どうなんでしょうかね
『続日本紀』時点で、役行者が「鬼を使役する」人物として描かれていた
また、前鬼・後鬼を侍られせいる図像で顕著なことからも、やはり「役行者=鬼を使役する」というイメージが強くあるのかもしれません
故に、山鉾に祀られる二柱の神は、それぞれが一言主であり葛城神であり、それぞれが「一言主・葛城神に対する女性的なイメージ」と「一言主・葛城神に対する強き者(と同時に時代が下がるに連れ、使役される立場に下った経緯)+役行者は鬼を使役するというイメージ」を体現していると考えられるのではないでしょうか、知りませんけど
TSだ!やったね!!
所詮、酒飲みながら適当なこと書き連ねているだけなので流してください、はい
黄色い射命丸みたいなの
役行者山で祀られている役行者が修験道の創始者で、同時に修験道の一派である本山派*70の開祖ともされているからか、この山鉾では聖護院*71配下の山伏による問答と採燈護摩供が行われます
祇園祭という八坂神社のお祭りで、修験道の山伏が護摩を焚くというのも中々面白いもので
(それをいうと、そもそも仏教の神である観音を祀っている山がある時点で、色々とミックスされているわけですが)
またまたまたまたまた話が逸れましたね
戻りましょう
「浄妙山」
園城寺(源氏側)僧である筒井浄妙が誰も渡れない細い橋桁の上を伝い敵陣へ乗り込もうとすると、同じく園城寺の僧である一来法師が浄妙同様に橋桁を伝い、「悪しゅう候、御免あれ」と浄妙の頭上を乗り越えて一足早く敵陣へ切り込む*74
そんな二人のシーンを描いています
敵陣に突っ込んで奮闘した浄妙と一来法師
浄妙は次々と弓を射り、弓が尽きれば長刀で隙間なく斬りまくり、長刀が折れれば腰刀で応戦し、63の矢を受けながらも最後は退却
一来法師はその場で討ち死に
山鉾に刺さった無数の矢が、戦いの激しさを物語っているようにも思えます
「八幡山」
町内に祀られている八幡宮を勧請した山鉾で、天明年間製作の総金箔の祠とその中に運慶作と言われている応神天皇騎馬像を祀ります
八幡宮で祀られる八幡神は、一般的に応神天皇の神霊とされ、武運の神として崇められてきました
皇祖神としての性格を持つ他、武士からの信仰も厚く、日本で一番信仰されている神様ともされています*75
そんな応神天皇の神霊こと八幡神ですが、最初から応神天皇の神霊として祀られていたわけではなく、元々は九州の宇佐氏の氏神でした*76
それが奈良~平安にかけて応神天皇と習合し、徐々に朝廷の守護神としての性格を帯びていきます
例えば聖武天皇の東大寺大仏建立では、「自分も天の神地の神率いてバックアップするから安心してや」と神託したり、道鏡という坊主とイチャラブ熱々関係にあった称徳天皇(女帝)が、宇佐八幡の神託で道鏡に皇位を譲ろうとしたときに、「これ絶対怪しいやろ」と朝廷より真偽を確かめるべく宇佐八幡宮に派遣された和気清麻呂に「いやいや坊主が天皇とかあり得んわ。譲位するなら皇家の中からやろ」と道鏡への継承を阻止する神託を授けたりと(宇佐八幡宮神託事件)、政治においていい感じにアドバイスをくれる神様とされています*77
平安初期には京都の南方にある男山に山上にも石清水八幡宮として勧請され、それなりのツヨツヨ神社として崇敬
例えば、平安中期に武士が台頭して各地で暴れ始めた頃(承平天慶の乱)には、石清水八幡宮で調伏の祈願がされるほか、末期には伊勢神宮に並び二所の宗廟として祀られるようにもランクアップ
(まあ、承平天慶の乱で暴れてた武士の一人である、自称「新皇」の平将門もまた、八幡神によって「新皇」の地位を保証されたとされているので、クソデカマッチポンプと言えなくもないわけでして( )*78
このように武家からも信仰を集め、鎌倉幕府Open時には鎌倉にも八幡神が勧請され、これが今の鶴岡八幡宮になります
総本社は起源でもある宇佐八幡宮で、他京都に勧請された石清水八幡宮と、八幡神の信託により博多のちょいと北に建てられた筥崎宮の3つを合わせたものが三大八幡と呼ばれています
(近年では東京に近い鶴岡八幡宮が筥崎宮に変わり三大八幡に採用されている例もあるとか)
そんなこんなで源氏にも信仰されあちこちに勧請された八幡宮
かんかん官営八幡製鐵所で有名な八幡の地名は、八幡村の合併元となった3村がそれぞれ枝光八幡宮、豊山八幡神社、乳山八幡神社を鎮守神としていたことに由来、カラオケするならレインボ~~!!👆😎👆*79の近江八幡も日牟禮八幡宮が地名のルーツ、京成パンダの根城が聳える京成八幡も葛飾八幡宮に由来(本八幡も同様)
他にも市原駅に改称させられかけた八幡宿も*80、夜明け前にフェリーから降ろされた限界オタクたちがたどり着くことで有名な八幡浜も*81、花輪線の八幡平、松尾八幡平も*82、信越線の群馬八幡も*83、飯田線伊那八幡も*84、芸備線備後八幡も*85、南海高野線の百舌鳥八幡も*86、南海加太線の八幡前も*87、京王線八幡山も*88、小田急線の代々木八幡も*89、名鉄河和線八幡新田も*90、名鉄豊川線の八幡も*91、叡電の三宅八幡、八幡前も*92、遠鉄の八幡も*93、長良川鉄道の郡上八幡も*94、鹿児島市電の荒田八幡停留所も*95、みな八幡神に由来するわけですね(息切れ)
毎回逸れるの、病気ですかね
鳥居の奥に鎮座する黄金の祠
そして鳥居の上には鳩
鳩は八幡神の神使とされ、その由来は応神天皇の神霊が金鳩に変じたとか、宇佐八幡から石清水に分霊する際に道案内したとか色々ありますが、はっきりはわかっていないそうで
それに故に、今ではすっかり平和の象徴である鳩も、中世では勝利の瑞鳥として崇拝されたほか、武士の家紋としても採用されるなど、ゴリゴリに戦の象徴です(
(一ノ谷の戦いにおいて平敦盛を泣く泣く討ち*96、戦の後に出家し法然門下となった熊谷直実の家紋もまた、寓屋に鳩でした)
「戦い」と言えばそう、ここ京都と大阪を結んでいる京阪電車もまた、日々JRと阪急相手に日々熾烈な争いを繰り広げています(速度じゃ惨敗とか言わない)
そのため、京阪電車のエースである特急列車も、この淀川を挟んだ「旅客争奪戦に勝利する」という意味を込めて勝利の瑞鳥である鳩のマークを掲げています。嘘です
京阪特急の鳩マークは、1952年に特急用のHMとして公募より採用されたもので、沿線の石清水八幡宮に因むとのことです
なので、結局は「八幡神繋がり」ということなんですね
写真はその最寄駅を盛大に通過していく京阪特急
八幡神絡みで鳩をあしらった意匠では、時折向かい合った姿で鳩を見かけますが、これは八幡の「八」に寄せているだとか*97
6缶パック×4 SUPER"DRY"
そして八幡山の後ろからやって来るは、くじとらずであり最後尾を務める「大船鉾」
御神体は神功皇后と、渡海を守る住吉明神*98・鹿島明神*99・安曇磯良*100の三柱
神功皇后の三韓征伐の説話に由来し、前祭にも同じ三韓征伐由来を由来とした「船鉾」がいるため、前祭を出陣とし、こちらは凱旋の船鉾とされています
(御神体の神功皇后も、前祭の「船鉾」では鎧を纏い、後祭りの「大船鉾」では狩衣を纏った姿とされています)
「船鉾」と共に室町時代から存在していた鉾で、応仁の乱や天明の大火などの被害を受けながらも復興を続けてきましたが、幕末の蛤御門の変*101*102による大火で御神体を残し大半を焼失
以降長らく不在となっていましたが、2014年に後祭の復活と共にこの大船鉾も150年ぶりの復興を果たしました
舳先に掲げられているのは龍頭
この大船鉾は四条町の所在で、かつては北四条町と南四条町が隔年で巡行を受け持っていました
そして北四条町受け持ちの際は龍頭を、南四条町が受け持つ際は御幣をそれぞれ舳先に掲げていましたが、先述の蛤御門の変による大火で龍頭が焼失
大船鉾が復活した14年以降もしばらくは南四条町の御幣が掲げられる状態でしたが、18年に龍頭が復活*103
以降、往年の姿と同様に、御幣と龍頭が隔年で舳先に掲げられるようになりました
丁度このときみた龍頭がこれにあたるわけですね
(2年前の出来事なのに回収に3年かかってるもうダメだ)
前祭、後祭共に最後尾を務める船鉾
その堂々たる様相に特別感を感じます
210系。
「信号機直す車」
本尊はタダノ製の車載クレーンで、製造のタダノは大正8年(1919年)創業の歴史を持ちます
のこ盤に始まり、製瓦機、搾油機、枕木を敷く機械を経て、1955年に日本初の油圧式クレーン車を開発。以降、クレーン車や高所作業車等を中心とした製品を世に送りだしています
山鉾はいすゞ製のエルフでしょうか?(ロゴ見えんと分からん)
体躯こそ小柄ですが、どの山鉾にも勝る馬力を誇ります
既出の引き目で撮っている写真を見るとお分かりになりますが、当然あんなデカい山鉾が信号機に抵触しないはずがなく
こうやって巡行の際は信号機が回る形になっています
こうして何気に初となった後祭の巡行を見終え、当初の目的である大学にへと向かいました
37.2℃…
— 既望路 (@after_full_moon) 2018年7月24日
39.8℃乗り越えたんだからいけるはず(謎の確信)
しぬ
2018年7月22日
突然ですが、20日前の朝は何を食べましたか?
ほほう、天丼全部のせですか、やりますね(んなわけあるか)
では、22日前はどうでしたか?
んなもんいちいち覚えているか、ですって?そりゃそうでしょう
つまり何が言いたいかというと
もう5年も経ってりゃ別に日付バラバラでももう誤差でもなんでもないよねっ!!!
ということで、時間、遡ります。
♪交わした約束忘れないよ~
今はなき5000系に乗り換えです
未だに走っている感じしかしない
で、準急に乗り換え訪れたのは、すっかり綺麗になった伏見稲荷駅
インバウンドの増加に伴い、踏切の警告もやかましくなりました(
そりゃあんだけ外国人ひしめいていたらね
橋にさしかかる手前、何やら意味深な嵩上げが見えますね…
(今昔マップより改変)
はい、もうご察しの通り、京都市電の伏見電停跡です
日本初の営業用電車として塩小路高倉(京都駅)から中書島を結んだ京都市電伏見線*104
伏見線との直通を行い時折京阪線と衝突しながらも、三が日には京都駅から多くの参拝客を結んだ稲荷線ですが、1970年に伏見線と共に廃止となりました
その電停跡が取ってつけたような公園*105の一角にあるエリアで、微かに見える線路と共にかつてここまで市電が来ていたことを物語っていました
まあ、観光客増加に伴う道路拡張工事でほとんど埋められましたが
(代わりにチラッと見えていた線路は掘り返され保存(残されたのは片方だけで、もう片方はスロープの邪魔だったのでまた埋められましたが) )
駅然り、参道然り、インバウンドを受けどんどんと姿を変えていく様に、なんとも言えない気持ちが無いといえば嘘になりますねぇ…
話を戻して
日が落ちても残る蒸し暑さと、どこか浮足立ったような空気が混ざり合って駅前の参道に漂う夜の伏見
熱を帯びた表参道の先、赤い提灯に灯された朱塗りの鳥居がおいでませ
参道に立ち並んだ屋台が祭りの空気を更に掻き立てる
というわけで、この日は伏見稲荷の本宮前夜
宵宮祭
この日は無数の提灯が灯され、宵闇に浮かぶ真っ赤な提灯が朱塗りの境内を更に幻想的に染める
本宮祭は全国の稲荷神を祀る崇敬者が参拝し、日々の神恩に感謝する日
どこまでも朱く赤く紅い境内
全国3万の社を抱える稲荷神社の総本社に相応しい光景
果てしなく朱いそれは、祭りの熱で浮足立った心を更に奥へと引き寄せる
惹き入れられ、千本鳥居
右か、左か、はたまた
幾重に伸びる朱い道
奥へ――
奥へ奥へ――
赤い提灯に導かれるまま、朱塗りの鳥居を潜り抜けて更に奥へ――
出で迎えるは、ボゥと浮かび上がった奥の院
朱い鳥居を隔てた此の空間は、屋台で賑わう彼の喧騒とはかけ離れた空間
この背後に聳えるは、稲荷神御わす稲荷山
戻れば再び喧騒へ
少し遠回りして行きましょう
ここから先はもう提灯はなく
ただ灯籠の灯りがあるのみ
提灯の導が無くとも、何度も通った道なので行き先は分かる
続く先が昼と同じなら――。
2018年7月20日
徹夜でワンチャン
— 既望路 (@after_full_moon) 2018年7月19日
駄文を増産 pic.twitter.com/v4FNkAQwLX
寒暖差やめろ風邪引くわ
相変わらず徹夜でレポートを仕上げ、当日提出を繰り替えず日々の限界大学生ライフ
夏は祭りもレポートも忙しいぜ(
帰りに立ち寄ったのは「京の台所」こと錦市場
ここに毎日、新鮮な京野菜や琵琶湖の川魚、ハモにぐじなどといった京の食文化が集います
平安時代にはすでに市が開かれていたとされ、江戸時代には既に魚市場として幕府より公認を受けているという歴史も持ちます
今も多くの魚屋が軒を連ねる錦市場
この日は土用の丑の日ということもあり、うなぎの販売で賑わっていました
例のオタク色の濃い果実屋もちゃんとアップデートされていました(
あ^~土用うさぎがぴょんぴょんするんじゃ^~
何気に4年ぶりの錦市場でしたが、この手の店も随分増えてきたなぁと思いました
京都のイメージに幻想抱きがちなので、こういう場所で見かけるとちょっと萎える
そして、前回より確実に増えている外国人観光客の多さにヘトヘトな一日でもありました(そりゃ徹夜明けならそう)
2018年7月17日
ラストスパート、頑張ります pic.twitter.com/eyCtU4h78o
— 既望路 (@after_full_moon) 2018年7月16日
腹減って来た pic.twitter.com/Ob41pApFru
— 既望路 (@after_full_moon) 2018年7月16日
近代文学史と図書館系の講義の豪華二本立てオールナイト
なんでセンサーバー転がってるんですかね
そしてエナドリぶち込んでお講義へ
なんとか気合で講義を乗り切り、カバンに仕込んできたカメラ下げ新町通へ繰り出す
そこには建築基準法で規制された周囲の屋根屋根を上回る菊水鉾が、ゆっくりと住宅街の中をゆく姿
ギリギリ目当ての列車に間に合わなくてせめてもので踏切を通過する姿を横から撮った時の鉄道写真みたいわかりにくいですが、屋根が唐破風とちょっとお洒落な感じになっており、山鉾の中では唯一の屋根造りになります
先述の後祭の山鉾で既に満身創痍疲労困憊心身崩壊極限状態雲湖朕鎮な状態に皆様におかれましてはもう脱線はいいというお気持ちで一杯でしょうので、前祭の方は軽くに留めます
菊水鉾は、町内にある「菊水井」という井戸に由来し、山鉾では菊慈童*106を祀ります
「木賊山」
『木賊』という能*107をモチーフとした山鉾で、拐われた我が子を思いながら木賊を刈る翁の姿を現した人形をを御神体としています
前懸は「唐人交易図刺繍」
どこかしら、曳き手の衣装も大陸感出ている気がします
またまた大きいのがやって来ました
「岩戸山」という山鉾で、天照大神の天岩戸の話を題材にしています
黄泉の国から命からがら逃げ帰ったイザナギが禊をした際に、アマテラス・ツクヨミ・スサノオがオギャアと誕生
なんやかんやあった末*108、スサノオがアマテラスのいる高天原に立ち寄ると、そこで田は壊すは、う◯ち撒き散らすわ、皮を剥いだ馬の死体を機織り小屋に投げ込んでワカヒルメを死亡させるわと大暴れ*109
流石にブチギレたアマテラスがモゥマヂ無理。。ィワトガクレショ。。で洞窟に閉じこもり、世界は暗闇に包まれる
暗いってゅうのゎ。。英語で「dark」 これを更に暗くすると。。「ダークライ」 そぅ。。国譲り神話はタケミカヅチVSタケミナカタVSダークライ。。アラモスタウンのモデルゎ諏訪ってコト。もうマヂ無理。四天王の部屋でなみのりしょ。。
押しても引いても調べても手持ちの最初をジーランスに最後をホエルオーにしてあなをほるを使ってみてもうんともすんとも出てこなかったアマテラス
そこで高天原の参謀役であるオモイカネが思いついたのが、アメノウズメによるストリップショーon桶(ポロリもあるよ)
あとは御存知の通り騒ぎが気になり顔を出したアマテラスを、八咫鏡を使って引っ張り出して、無事世界に光が戻りましためでたしめでたし
流石にふざけが過ぎましたね(いつ真面目な文書いた)
山鉾では鏡を胸にかけたアマテラスと、アマテラスを引きずり出した天之手力男命
と、屋根の上にはイザナギが安置されています
見た目は「◯◯鉾」なのですが、よくよく見ると鉾柱ではなく松を立てているので山です
「船鉾」
前祭巡行の最後を務める船鉾
モチーフは後祭の「大船鉾」と同じく神功皇后の三韓征伐で、こちらは出陣船鉾とされています
船首にいるのは「鷁(げき)」という想像上の水鳥で、水難を防ぐと言います
平安貴族がよく湖に浮かべてた
細い路地を見事な連携プレーの元すり抜けていく様は、この新町通の見どころでもあります
ときに電線を足で向こう側に追いやりながら進む姿も見られますが、メタル合金山鉾でしたら即死だったでしょうね(
(まあ、電線は被覆されているでしょうし、足袋はゴム製なので大丈夫なのでしょう。停電は…どうなんでしょう?)
この黄色い保護カバーが新町通を覆う時期になると「いよいよだな」となるそうで
さて、最後尾を務める「船鉾」が過ぎると、その後ろから更に別の山鉾が
??コーナーで差をつけられて抜かされた??
というのも、巡行自体はこの鉾がやって来た先にある新町御池の交差点が終着点
そこから各々の所属の位置へ回送されるわけですが、なにせこの高さですと電柱接触不可避なので、こうして(とりあえず山鉾が通れるように頑張って電線整理した)新町通を通ってみんな帰路に至る訳です
(なので、ここで待っている人は皆返却回送狙い)
で、巡行の順番としては船鉾が最後尾ですが、この「放下鉾」の所属が四条新町上ル(つまりこの道の道中)なので、こいつを先に通すと後ろが全部つっかえちゃうので、新町御池で他の山鉾を先に行かせています
結局新町御池のコーナーで差をつけられたんじゃないか!
返却回送大トリ「放下鉾」
祀っているのは放下僧の像
放下僧とは、超ざっくり言えば大道芸的なことをしていた人で、特に僧の格好をしたものを放下僧といったとか(僧体でないものは放下師)*110
他、「放下僧」という名で能の演目にもなっています*111
10何トンもある巨体をゆっくり進ませながら、細い路地をゆく山鉾
大通りをゆく姿とはまた違った迫力を感じることができます
車輪ががギシギシと音を鳴らせ通過する様からも、山鉾の巨大さを感じ取れます
ゆっくりと遠ざかっていく最後尾の山鉾
各々の場所に戻れば解体
そしてまた、来年の夏に再び組み上げられることになります
一通り山鉾が過ぎていったので、あとはその辺ぶらぶら
新京極も祇園祭一色です
いつからここにあるのだろうかと考えると、少しワクワクしてきます
(こういうとき意外と新しかったりする)
この辺りは結構町家が多く、清水や祇園とは違った京都らしさを感じることができます
やって来た先は神泉苑
一応寺院なのに堂々と鳥居掲げてるの沼
場所としてはこの赤色で塗っている場所
お越しの際はJR二条か市営二条城前からどうぞ
境内に入ると大きな池がお出迎え
今でこそ寺院ですが、実は元は平安京大内裏に隣接した禁苑*112でした
はい、みんな大好き今の京都に平安京を置いた地図です
中央北にドンと構える大内裏(皇居と霞が関合わせたようなやつ)の南東側に、皇族や貴族が遊b政をする神泉苑がありました
大内裏は幾度の被災を経て移転*113、朱雀院*114も荒廃、西寺も廃寺になった現在、通り以外では「東寺」と「神泉苑」が当時から残る施設といえるでしょう
まあ、さっきの地図と見比べても分かる通り、規模は随分と小さくなりましたが
余談ですが
よく見る四角い平安京の区割りはあくまでも完成予想図で、実際は西側を中心に空き地も多かったそうです
(地図は昔受けた講義のレジュメを参考に超ざっくり作成)
右京側は水はけが悪くすぐに廃れた、というのもなんとなく見えてきますね
(今でこそ街なかを走るJR嵯峨野線も、開業時は街と田園の境を走っていた)
そんな歴史ある京都の中でもかなり最古参レベルの庭園もとい寺院
境内には仏塔とお稲荷さん
まあ、寺というより寺(東寺)管轄の道場ってニュアンスかもしれませんけど
こちらは「恵方社」
歳徳神という福を司る陰陽道の神様を祀る社で、この歳徳神のいる方角が「恵方」とされています
そしてこの砲塔の台座のようなスタイル(コラ からもお分かりの通り、なんと毎年恵方に合わせて向きが変わります
この年は南南東だったので、祠が望むは北北西
これで参拝者は南南東を向いて参拝することができるということですね
これは南南東が恵方の時の写真。つまりこのブログの遅れは0年だ、いいね?*115
そして、この歳徳神は八坂神社のときに出てきた牛頭天王の妃である頗梨采女と同一であるとされ、神仏習合の影響で櫛稲田姫とも同一(もういい
そしてこちらは「善女龍王社」
名の通り、善女龍王という雨乞いの神様を祀る社
善女龍王とは八大龍王の一柱である沙羯羅竜王の三女で、先述の頗梨采女とは姉妹関係*116
善女龍王と聞くと迷わずチラ見えする八重歯の牙が可愛いドラゴンっ娘の姿を想像してしまいがちですが(しない)、高野山所有の国宝「絹本著色善女竜王像」では男神として描かれています(嘘だっ!!)
でもご安心ください(何を)、長谷川等伯の善女龍王像では女性として描かれています(やったぜ)
そうです、いつの時代だってこんなに可愛い名前の神が男神なわけがないのです
そしてこの神泉苑には、この善女龍王と真言宗の開祖である空海にまつわるエピソードがあります
平安初期の頃、長引く日照りにより都がアチアチになり、このままでは平安京がマネケンの焼き立てプレーンワッフルになってしまうということで淳和天皇の勅命で、西寺の守敏と東寺の空海による第一回雨乞いファイティングin神泉苑が開催されることになりました
途中守敏の妨害*117もあったものの、無事空海は雨乞いの神である善女龍王を召喚し、京都に雨をもたらすことに成功しました
そんな雨乞い道場としての歴史を持ちます
堂内に掲げられるのは「龍」
龍と水とは切っても切れない関係があり、インド・中国・日本のいずれでも祈雨の神としての信仰を持ちます
インドでは龍とは言い切れませんが、半人半蛇のナーガが水や雨を支配する神として崇められ、インド初期密教における祈雨法*118においても龍(半人半蛇)を供養・降伏しています
中国では民間信仰レベルにて、龍は(龍→川→水の連想で)雨乞いの本尊としても信仰
先述のナーガが中国に渡り「龍」と漢訳されると、インドのナーガと、中国古来の龍信仰も合体
「龍王」として祈雨法の本尊として祀られるようになりました
一方で日本でも、元々蛇を水神として祀る信仰*119があり、中国より龍が伝来するとこれが習合
龍王は水神、祈雨の神、龍宮は海を司る神
また、祈雨・止雨の神として祀られている「闇龗神(闇淤加美神)」と「高龗神」も、「龗」の漢字は龍神に由来
四神相応においても、東は青龍で、地勢は川・流水とされている他、神社の手水舎にも龍が多用されているなど、「龍」と「水」の関係性を見ていくと大変奥が深いものとなっています
もう奥が訳分からんぐらいに深すぎて、どれぐらい深いかと言うと「龍と水における関係性」なんて題で作成した学期末レポートがまとまりきらず見事爆死したほどであります
上記は大体そこに書いてたことです(終わった学期末レポートの再利用はエコに繋がるので実質SDGs)
みなさんも龍を見かけた際は、そこが水と関係あるかどうかを見てみるといいでしょう
そして一緒に堕ちていこうぜっっっ!!!
鴨「何回脱線すんねん」
そんな祈雨の伝説が残る神泉苑ですが、先程見てきた祇園祭もここ神泉苑より始まったとされています
貞観11年(869年)、都を初め国内で疫病が流行したとき、当時の国の数だけの鉾を立て、祇園社*120から神輿を出し、疫病神*121を祀り鎮める祭礼が行われたとされています
この神泉苑で執り行われた御霊会が、今の祇園祭につながると言われています
1100年以上続く祭りのルーツを巡る寄り道でもありました
閑話休題
突然ですが皆さんはサブウェイをご存知でしょうか
そうです、地下走ってるあれです、違います*122
サンドイッチ売ってるあのチェーン店です*123
サブウェイは1965年にアメリカで誕生し、日本には1991年にサントリーHDの子会社として上陸
赤坂見附に1号店を構えて以降、日本人の体質に合わせた商品の開発なども重ねながら、一時は店舗エリアを全国43都道府県にまで展開
しかし、2016年にフランチャイズの契約が切れ、18年にはサントリーが経営から撤退すると、以降は閉店が相次ぎ、今では34都道府県にまで減少
(以上全てwiki調べ)
存在こそは知っていましたが、中々利用する機会がありませんでした
というか、店舗がほぼ無いんですよ
京都に
唯一清水五条の所にありましたが、そこも19年5月に閉店
ということもあり、長らくサブウェイを知らぬまま過ごしてきました
(まあ、そもそも外食する文化があまりないせいで、マクドすら滅多に行かないってのも理由にあるのですが)
そんなこんなで2023年8月某日
【実績解除】サブウェイに行く pic.twitter.com/XXHUUmGgh6
— 既望路 (@after_full_moon) 2023年8月14日
ついにサブウェイデビューを果たすことができました
きっかけは「サブウェイは野菜いっぱいで美味いぞ」という某ブログ記事(の前座)で、「ファーストフード=脂っこい」という先入観を打ち砕かれて以来、サブウェイのことが気になりすぎて夜も8時間しか寝れない日々が続いていました
それでも中々立ち寄る機会がない
というのも休日にフラっとお出かけする先は決まって京都
そ し て 京 都 に は サ ブ ウ ェ イ が な い
大阪市内に行けばわりとありますが、大阪市内には用がない(それでも大阪府民か)
強いて言うなら期間限定ラーメンを食べに行くぐらいですが、間食もあまりしないので、やはり行く機会がない
(というかそもそも混んでるのが苦手なので14時ぐらいに飯食べに行きがち)
ただ今日は用があった
だから行った
というかサブウェイ行くチャンスだったので、飯食わずに家出た
して感想はというと
まずは一番の懸念点であった呪文
当然緑の洒落た珈琲店も立ち寄ったことがないので、あの注文時に皆が唱える「ペペロプリプリパピプペポペロペパチーナのショート」やら「ヤサイマシマシニンニクアブラカラメ」やら「108130958085102」やらを唱えられる自信はありませんでしたが、そこは事前にリサーチ
どうやらカスタムと言っても、一つづつ選んでいくタイプなので、そこまで難易度は高くありませんでした
STEP1 サンドイッチを選ぼう
え、サンドイッチを選んだのにまだSTEP1なの
とりあえず無難にBLTをチョイス
うぅん、気仙沼の香り
STEP2 パンを選ぼう
なんか4種類ぐらいあります
加えて焼くか焼かないかも決めることができます
ラーメン屋で言えば麺の硬さみたいなものでしょうかね
わい「(ここは無難にホワイトとかセサミ(多分ごま)でいくか…?)」
店員「パンはいかが致しましょう?おすすめはハニーオーツです」
わい「じゃあそれで」
店員「焼きますか?」
わい「お願いします」
オタク、極力会話を最低限で済ます方向に持っていきがち
STEP3 トッピングを追加しよう
ここでは既存のメニューにチーズや卵、ベーコンなど好みの具材を有料でトッピングすることができます
ラーメンで言う煮玉子
わい「(チーズとか気になるなぁ)」
店員「トッピングはいかが致しましょう?」
わい「あっ、大丈夫です」
オタク、極力会話を最低限に(以下略)
STEP4 野菜をチョイス
ここでは野菜を増やしたり減らしたりすることができます
ラーメンで言うヤサイとかニンニクとか
店員「苦手なお野菜などはありませんか?」
わい「(ん…?)あぁ、はい(よく聞こえんかった)」
店員「承知しました」
オタク、よく聞こえなかったらとりあえず「はい」って言いがち
STEP5 ドレッシング・ソースをチョイス
9種類ぐらいあるドレッシングからお好みのものをチョイスします
ラーメンでいう… えっと背脂(適当)
わい「(無難にこの一番上に書いてるオイル&ビネガーなんちゃらでええか)」
店員「ドレッシングはいかが致しましょう?おすすめはシーザードレッシングです」
わい「それで(即答)」
オタク(以下略)
STEP6 サイドメニューとドリンク
ポテトとかドリンクとか
ラーメンでいう餃子とかビールとか
ご一緒にビールは如何でしょうか?(アルハラ)
そんなにガッツリ食うつもりはないので、とりあえずコーヒーだけ注文
後は店内か持ち帰りかと、支払い方法についてぐらい
これで今日から君もサブウェイマスターだ!
味は流石とあっと美味い
ベーコンの控えめな肉汁がドレッシングと溶け合い、それが焼かれたパンに薄く染みていく
それをシャキシャキレタスと一緒にかぶり付くことで、口の中に肉の旨味と野菜のみずみずしさが広がっていく
焼けたパンに、熱々のベーコン、そしてフレッシュな野菜
全部が冷えているか、野菜が熱でヘナヘナになっているかの2択なコンビニサンドイッチには真似出来ないこの組み合わせは、その場で作っているからこそできるもの
マクド感覚で行くと少し根は張りますが*124、気軽にサンドイッチが食べれるという点では、結構いいかもしれません
(まあ、ハンバーガーも一種のサンドイッチではありますが)
というわけで唐突なサブウェイレポでした
理由?察せ*125
本題へ
再び戻って、ここはサブウェイの失われた街、京都
「サブウェイめっちゃヘルシーやん。バーキン通いのうちらからすればめっちゃありがたいわ」
「ファーストフードに来てこんな野菜食べたん応仁の乱以来ちゃう」
「フットロング頼んだはずやのに、レギュラーと間違えてはんで」
「オールヘビーどす」
「肉どこ」
と京都の人々にも大変な好評を博しておりましたが、先述の通り19年に京都最後の店舗が惜しまれながらも閉店した歴史を持ちます
戻ってきました四条通
またしてもブチギレ行政、本気のマイカー規制かと思いきや
八坂神社の方から列がズラズラと
すると八坂神社から、三基のお神輿が登場
八坂神社の神霊が神輿に乗り、御旅所へ移る神幸祭
本当はこっちが祇園祭のメイン行事
昼の雅な山鉾巡行から一転、「ほいとーほいとー」の掛け声と共に豪快に担がれる神輿
山鉾巡行によって清められた氏子圏を巡り、河原町三条のバーキン寄りながら高島屋近くの御旅所を目指します
時代祭のときは栗東からも馬を借りている、なんて話も耳にしたことがありますね
櫛稲田姫を祀る東御座神輿が新橋通りを通過
宵の京都ゆく
宵空に昇る祭りの熱――
神輿を持ち上げ、掛け声とともに大きく振り回す
「白熱」の一言に尽きます
少しでも雰囲気が伝わればと
寒い日にどうぞ
御旅所までもう一息
交通規制により、普段は通らない三条以北の川端通を走る37系統
三条大橋を渡る神輿
(バーキンまであとちょっとや!!)
神輿はこの後河原町通を南下して22時に御旅所へ
中御座と西御座もそれぞれのルートを経て御旅所へ向かい、この祭りの熱は日付が変わる手前まで止まない
最後まで見ていると終電が無くなるので、ここらで京阪電車に乗り込み、祭りの余韻をカーブで揺らし帰路に至りました
祇園祭といえば風流で雅な山鉾巡行が有名ですが、熱気のある勇ましい神輿渡御もまた好きです
もし夏の京都に来られる際は、宿泊費こそはべらぼうでしょうが是非京の祭にも足を運んでみてください
きっといつもとは違う一面の京都を目にすることができるかもしれません
(なお容赦なく襲いかかる40℃の気温と湿度)
とーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーいうわけで、今回はここまでとさせていただきますっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
気がつけば…… 32000字っ…!!(どこが圧縮だっ!!)
そして雪が降り積もり、雪溶けて、草木が芽吹き、桜咲き、桜散り、ミスドの桜ドーナッツも祇園辻利ドーナッツに代わり、ツバメ飛び、田に水が張り、緑が深くなり、カエルが鳴き、梅雨が訪れ、紫陽花が咲き、梅雨が去り、ヒマワリが背を伸ばし、日差しが照りつけ、蝉が鳴き始め、夕立に見舞われ、ミスドのフレンチクルーラーが50周年を迎え、ヒマワリもシオシオになり、いよいよ泣き出したツクツクボウシも気がつけばスズムシに世代交代し、ミスドの店頭にさつまいもドが並び、田に実った金の稲穂もコンバインで刈られているではありませんか
季節ってほんと目まぐるしく移り変わりますね… #などと
ところで皆さんご存命でしょうか…?
……
あら返事がない
仕方がない、ここに墓を建てよう
もちろん皆さん戒名はミスドのメニュー名です
円形小麦油揚院本・泥・輪弘居士
さて、今年も残すところ2ヶ月となりましたが、え、あっ、あと2ヶ月!?マジ???
今年はあといくつ記事をお送りすることができますでしょうか
いくら遅筆とはいえ、毎年10記事ぐらいは投稿していましたが… この月あと4記事書けを2回やらねばならないので、今年は控えめイヤーということで
次もまた年内にお会いできるといいですね(にっこり)
(いよいよヤツが登場する時期になります)
というわけでまるでタイミングが合わず運用ぶつ切りで横断することになった静岡区間並みに長く感じられた今回の記事もやっと終わります!
散々長々と書いてはきましたが、もし少しでも本記事を通して、登場した場所や事柄に興味を惹かれたようでしたら甚だ幸いです
では、以上
本記事の内容は9割9分9厘が下記の内容を元に雑に改変されて記述されたものになります(ちょっとは覚える努力をしろ)
参考
・『京都 地名の由来を歩く』、谷川彰英、2015年、ベストセラーズ。
・『京都のトリセツ』、清水康史、2021年、昭文社。
・『萌える!日本神話の女神事典』、TEAS事務所著、2014年、ホビージャパン。
・『岩波仏教辞典 第二版』、中村元他、2002年、岩波書店。
・『JR・第三セクター 全駅名ルーツ辞典』、村石利夫、2004年、東京堂出版
・ゼミで書いた龍と水の関係性について調べたレポート
シリーズ4 祇園巽橋|京阪沿線の名橋を渡る|おでかけナビ|沿線おでかけ情報(おけいはん.ねっと)|京阪電気鉄道株式会社
【第2弾】祇園編 | 京都案内「グラマニア」 | 京都のホテル 京都駅直結のホテルグランヴィア京都【公式】
京都五花街の歩き方『祗園甲部』 | Nostalgic Landscape
八坂(やさか)≪地名由来≫ - さあ~てと 帯しめましょか。
牛頭天王 -神でも仏でもない「カミ」- | にっぽん ってどんな国?
「牛頭天王」とは、なにものなのか?二十四節気「小暑」(季節・暮らしの話題 2019年07月07日) - 日本気象協会 tenki.jp
維新の道 | 近辺の観光案内 | 京都 祇園の広東料理 ぎをん森幸
霊明神社 坂本龍馬と中岡慎太郎の葬式をしたのは, この神社。
建築家 伊東忠太を知ろう! 築地本願寺など - SUMUKOTO.COM
祇園閣|京都・祇園に聳え立つ異形の望楼の正体とは【伊東忠太の奇想建築】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
八坂神社国宝指定が決定の理由:祇園造と中世の信仰の関係 | ヤギの京都観光案内/KYOTO GOAT BLOG
スサノオが根の堅州国に追放される | 古事記・現代語訳と注釈〜日本神話、神社、古代史、古語
橋弁慶山 | 山鉾について | 公益財団法人祇園祭山鉾連合会
加茂葵祭行列図を鮮やかに復元/祇園祭、山鉾の胴懸 | 全国ニュース | 四国新聞社
北観音山 | 山鉾について | 公益財団法人祇園祭山鉾連合会
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南観音山 | 山鉾について | 公益財団法人祇園祭山鉾連合会
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センチメンタル ジャーニー 葛城山 紅葉 すすき 『雄略天皇、葛城神、一言主神は同一神だった?』
日本一多い!八幡神社にまつられる「八幡さま」は、どんな神さま?(季節・暮らしの話題 2020年09月17日) - 日本気象協会 tenki.jp
八幡神は応神天皇ではない - 九州で顕現したのだから九州と密接に繋がる“天皇”のはず - 神社と古事記
大船鉾とは | 京都・祇園祭「大船鉾」- 公益財団法人 四条町大船鉾保存会
祇園祭の大船鉾が龍頭を新調 「本来の姿に」関係者ら喜び - 読んで見フォト - 産経フォト
祇園祭後祭の「龍頭」制作の米原・森さん、江戸の名工・九山新之丞継承 - 産経ニュース
龍頭鷁首(りょうとうげきしゅ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
電柱すれすれ!祇園祭・山鉾巡行の穴場は巧みな技術が見られる新町通 - MKメディア
*1:所詮勉強机の流用
*3:応答速度とコスパのTN、映画のVA、写真・動画のIPS(偏見)
*4:脱糞芸に空目したやつ全員京都トレイル1000周な
*5:「若者」的には河原町や木屋町の方が繁華街なんでしょうけれど
*6:芸姑さんを呼んで、取り寄せた料理で宴会を行い、芸を楽しむ店。当時はキャバクラやガールズバー的な面も
*7:幕府からの正式営業許可が降りてからの形成で、外町の登場から約60-70年後の享保年間に登場
*8:明治初頭に祗園甲部から分離独立したエリアで、当時は祇園乙部と呼ばれていた。四条通
*9:京都にある6つの花街のうち、嶋原を除いた5つの花街の総称。上七軒、祇園甲部、先斗町、祇園東、宮川町(嶋原が外れているのはひとつだけ市街地から離れているから?)
*10:神仏分離令によって国家主導で神道と仏教が切り離された際に発生した全国的な仏教排斥運動
*11:社地領上知令で建仁寺から京都府にボッシュートされた土地が八坂女紅場へ払い下げ
*12:明治6年発足の花街運営機関兼、舞妓・芸妓さん教育機関
*13:明治初頭の京都は明治天皇の東京行幸に伴う皇家・役人・行政機関、またまたそのお抱えの商人等までもがごそっと民族大移動する東京奠都で超超大打撃を食らっています。おまけに幕末頃にはここ祇園で大火も発生。
*14:四条通や大和大路通では江戸初期からお茶屋が立ち並び始め、歌舞伎の隆盛と共に一大花街を形成していました
*15:2面の屋根をハの字に置いた屋根造りの家のうち、屋根の棟と平行な面から出入りする様式
*16:電車でいう、平入は乗客用ドアのある方で、妻入が貫通扉の方
*17:波型の瓦を積んだよく見るやつ
*18:赤茶色の格子。紅殻の由来は、インドのベンガル地方の塗料であることに由来
*19:二階部分で接待をしたので、二階が一階並みに高い、等
*20:家の前にいっぱいある丸く湾曲した竹。馬の跳ねる泥や犬猫のおs尿から壁を守ったりするそうで
*21:「祇園坂」「長楽寺坂」「下河原坂」「法観寺坂」「霊山坂」「山井坂」「清水坂」「産寧坂」
*22:霊魂を鎮魂する場所としての「安息処(やさか)が「八坂」に転じた
*23:難波ではない
*25:仮の姿として現れる
*27:外人ニキが営業してた観光客向け雑貨屋が勝手に外観変更して、ブチギレ行政がそれを木の板で封印した事例があったとか。ちゃんと事前に行政指導はしていた
*28:元は清水寺建立以前から泰産寺があり、仁王門(清水寺に来て一番最初に出迎えてくれる門)の前にあったそうですが、昭和初期に現在の奥まったところに移転
*29:江戸時代に創建された神道葬祭の神社。坂本龍馬や中岡慎太郎を始めとした幕末の志士もここで葬送
*31:織田信長と信忠の菩提を弔う寺として二条新御所(2代目二条城、現在の烏丸御池辺り)に建立された寺院。火除天満宮が鎮守社となる
*32:秀吉の京都改革の時代に二条新御所から、今の四条河原町の高島屋の西辺りに移転。戦後の高島屋の増築に伴い今の場所に再移転。なお、神仏分離令後だったため、鎮守社の火除天満宮は今でも高島屋裏のファミマと半分同化しながら鎮座している
*35:誰との子かは不明で妹にオオヤツヒメとツマツヒメがいる。スサノオの命の元、出雲国から日本全国へ(元はスサノオの胸毛やらケツ毛だった)樹木を植えて周る旅をした
*36:スサノオの2人目の妻であるカムオオイチヒメとの間に生まれた神で、正月にお迎えする年神(正月神)として信仰されている(門松は年神の依代で、鏡餅は年神への供物)。また、穀物神や、イエ(祖先)の神としての性格も併せ持つ。
*37:オオヤツヒメとも。兄のイタケルと妹のツマツヒメと共に全国に毛…樹木を植える。樹木の神であると同時に、(樹木から作られる)家屋の神でもある
*38:兄姉と共に樹木を植える。ツマは建築に使う製材された木材や、木の枝、小さな家…などうーん色々。とりあえず姉と同じく家屋の神様
*39:オオトシガミと同じく、カムオオイチヒメとの間に生まれた神で、お稲荷さんで祀られている神様。稲の神から発展して、粟・稗等の穀物から肉・魚などの食物、更に蚕や桑などの農業生産物、ひいてはなんやかんやあって漁業や商売繁盛までカバーする超マルチな神様
*40:同名の神様が複数いてよくわからん(。イザナギ・イザナミの神産みの際に産まれた家宅六神の一柱やら、黄泉の国から帰ってきたイザナギが禊いだ際に産まれた大禍津日神と同一だったりやら、オオクニヌシが木国(紀伊国)で匿ってもらった大屋毘古神やら、先出のイタケルと同一だったり…。前者2柱と後者2柱は同一として、この大屋毘古神は後者の内、木国で匿った方を別として考えている?教えて詳しい人!!
*41:スサノオ根の国時代の娘で、根の国に赴いたオオクニヌシと結婚する。最恐嫉妬女神で、既にオオクニヌシとの間に子まで設けていた先妻が、子を木の俣にぶっ刺して実家に帰らせていただきますするレベル。ヤンデレ女神に死ぬほど愛されて大和に逃げれないオオクニヌシ
*42:牛頭天王と同じく疫病を司る。東京の八王子もこの八王子権現に由来
*43:室町末期。桶狭間の戦い、川中島の戦い、13代将軍足利義輝が殺される永禄の変とかそのあたりの時代
*44:南北朝時代半ば、いよいよ武力衝突が生じ血生臭くなった頃
*45:観音菩薩が持つ33の姿のひとつで、柳の枝を持っている。除病の利益がある。
*46:バラモン教から輸入された守護神で、伽藍(場所としての寺院)を守る神。悪魔に悩まされる修行僧あらばどこにいてもコーナーで差をつけながら秒速で駆けつける足を持つ
*47:1788年に京都を襲った京都最悪の火災で御所や二条城の各建物も焼失
*50:江戸後期に隆盛を極めた町衆文化の全盛期で、東海道中膝栗毛(十返舎一九)などの滑稽本の他、南総里見八犬伝(曲亭馬琴)、東海道四谷怪談(鶴屋南北)、富嶽三十六景(葛飾北斎)、東海道五十三次(歌川広重)等々の作品が生まれ、庶民の間でも寄席や縁日・御開帳、盛んな寺社参詣が流行した時代
*53:1563-1620
*54:「超エリートの李膺に才能を認められたならそれはもう鯉が龍門の急流を登りきったようなものだ。(黄河の龍門にある急流を登りきった鯉は龍になるという伝説がある)的な話が後漢伝にあり、そこから科挙に合格することを登竜門というようになったのが元々の由来だとか
*55:元祖小便小僧の地
*56:鈴鹿山に祀られている女神。鈴鹿峠に現れる盗賊(鬼)を討伐しにきた坂上田村麿に力を貸す女神として登場し、なんやかんやあってめでたくゴールイン。娘も設ける。
*57:ただ、鈴鹿御前の伝説自体が結構色々な話が入り混じって分かれてを経ているので、いくつかのパターンに分かれ、話によっては、鈴鹿御前自体が盗賊で、彼女を退治しに来た坂上田村麿となんやかんやあって結局めでたくゴールインという話もあり。
*58:記紀神話には登場せず、祝詞に登場する水の神様。伊勢神宮内宮の別宮である、天照坐皇大御神荒魂(天照大神の荒魂、暴走モード)の別名としても登場。鈴鹿峠が都と伊勢を結ぶ中間点に位置し、水に恵まれていることから伊勢神宮に仕える斎宮が禊をする場所でもあるので、それ繋がりで、同一視されているのでしょうか?
*59:前後十年に薪水給与令(1806)、フェートン号事件(1808)、異国船打払令(1825)など
*62:管理している町が交易に縁深い場所で、鈴鹿自体も交通の要であったことから、交易つながりで鈴鹿やシルクロードなどの意匠が採用されたとか
*63:楓さんより大きい。流石にきらりよりかは小さい。
*64:華厳経に登場し、インドの金持ちの家に産まれる。弥勒菩薩との出会いを機に悟りの旅に出て、観音や修行僧、遊女や子供など53人との出会いを通し、遂に悟りを得る。東海道五十三次の53の数はこれに由来するという俗説もあるとか。お餅とかが入ってる粒あんの汁物とは関係ない
*65:平安中期の天台僧で、源信が著した『往生要集』は浄土教の根幹を築くとともに、現代に続く地獄や極楽のイメージを形成。平安前期には同じ漢字で源信(みなもとのまこと)という貴族も出てくるので大変ややこしい。連れ去られた双子の片割れは探さない。
*66:神秘的な山で修行して超自然的なパワーを習得することを目的とした信仰で、古神道や仏教、山岳信仰、密教等の要素が混ざり合っている日本的なもの
*67:葛城山(金剛山)と金峰山の2大修験道聖地を行き来しやすくしたかった、なんて理由も
*68:平安中期の歌では「(平安男子は夜に女性の元に訪れ、夜明けまでには帰らなければならない風習を踏まえて)(明け方になっても全然帰る気配の無い男に対して)Chu!醜くてごめん 石橋完成しなさそうでごめん Chu!夜だけでごめん (素顔見て)失望しちゃうよね?ごめん」的なものも詠まれていたとか
*70:修験道は大きく分けて真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派に分かれる
*71:修験道本山修験宗の総本山で、白河上皇の熊野詣の先達(案内役のようなもの)も務めた園城寺の増誉が上皇より賜った、役行者縁の常光寺に始まる寺院。「聖護院」の地名の由来にもなっており。
*72:ウハウハ平氏にあらずんば人にあらず黄金ルートを築いていた平氏への討伐令で始まった合戦。通称、源平合戦。
*73:源平合戦最初期の戦い。追討令が露見し平氏に襲われたので、大津の園城寺経由で奈良興福寺へ逃れようとした以仁王が、平等院で追いつかれ戦闘に発展した戦い。この戦いで打倒平氏を打ち立てた以仁王は討たれるが、源氏側は一層奮起。壇ノ浦への戦いに続く一歩となりました
*74:『源氏物語』では「悪しゅう候、浄妙房」。現代語訳すると「悪りぃな、浄妙っ!!」。かっこよすぎやろ
*75:一番多いのは稲荷社ですが、信仰単位で数えると八幡信仰が一番になるとか
*76:穀霊神とか銅産とか漁の神だとか
*77:八幡神は仏教の守護神としても信仰されていたということもあり、民衆を仏教パワーでいい感じに制御したい朝廷が、仏教の守護神である八幡神に神託"させた"とみることもできるとか
*78:このマッチポンプ現象からも、八幡神の「皇祖神」としての性格と、王朝的秩序からの開放を促す武士のための「武家の守護神」としての性格の両方が見えてくるわけですね
*81:養老年間(717-724)からある地名で、八幡大神がこの地の浜に降り立ったことに由来
*85:奴可郡川鳥村と竹森村に八幡神社があり、それらを共通の氏神とする6村が合併して「八幡村」になったという、福岡の八幡方式
*86:百舌鳥八幡宮。三韓討伐を終えた神功皇后がこの地で天下泰平民万人の守護の誓願を立てた地で、欽明天皇の時代に八幡神の神託を受け創建。神社付近の御廟山古墳こそが応神天皇の廟であるという説があったり、他、特に根拠はありませんが、神社創建時に、ここの地名を「万代(もず)」と称し、これが現在の「百舌鳥(もず)」という地名に関わってくるとかそんな気もしませんかね?しませんか、ともあれ謎は深い
*87:木本八幡宮。麛坂・忍熊両皇子の乱により応神天皇がこの地に避難し、しばらく滞在していたことに因んで、欽明天皇の勅命により創建された神社(が元々近くにあった垂仁天皇期創建の木本の宮と一体化してできた)
*88:構内に跨る町名である八幡山が村内にあった八幡神社に由来する"らしい"
*92:三宅八幡。この地が小野妹子の所領で、遣隋使として随へ赴く際に九州の地で病気にかかったところ、近くの宇佐八幡宮で祈願したら病気が平癒したことにちなみ、謝恩の意を込めてこの地に勧請されたのが由来
*96:敵の首を取ろうとしたら丁度息子と同い年ぐらいで、哀れに思い逃がそうとするも既に味方が背後から迫っており、直実は泣く泣く敦盛の首を落とす
*97:八幡神社によっては御朱印の「八」の字が鳩っぽく書かれることもあるとか
*98:イザナギの禊の際に水の中から生まれた三柱で、水・航海の神として信仰。神功皇后に三韓征伐の神託を出し、それを加護
*99:鹿島神宮で祀られているタケミカヅチ。強靭なアn剣の神・雷の神としての信仰の他、地震鯰を抑え込む神としても有名。渡海の神という印象は薄いですが、鹿島神宮では神功皇后が三韓征伐時の鹿島神の守護に感謝して奉納した服帯といわれている、「常陸帯」が納められているので、関係性は0ではなさそう。また、後述の安曇磯良と同一視する見方もあり
*100:記紀には登場せず『太平記』等に出てくる海の神様。三韓征伐の際に神功皇后に潮を操る珠を献上する
*101:長州藩と公武合体派(会津・薩摩)による戦闘で、御所の禁門(蛤御門)付近が激戦地。この戦いで敗戦した長州藩は朝敵となり、第一次・第二次に続く長州征討に続く。
*102:みんな大好き薩長同盟は第一次と第二次の間で締結。一次では既に英仏米蘭国にボコボコにされていたこともあり戦うこと無く長州藩の敗北。二次では薩摩藩の協力もあり数では劣っていたものの長州藩の勝利。そして倒幕へ
*103:かつての龍頭が瀧尾神社の木彫りの龍も手掛けた江戸時代に代々名を受け継がれてきた彫物師九山新之丞であるとされ、龍頭復興に際してもその九山新之丞の名を継承し、瀧尾神社の龍を参考に製作
*104:開業させたのは京都電気鉄道
*105:停留所と線路の跡地をまんま公園にした
*106:菊の露を飲んで800年間ショタのまま過ごした中国の仙童。長寿のご利益があるとしてショタコンに人気
*107:都の僧が父を訪ねたいとう少年を伴い信濃へ向かい、そこで木賊を刈っていた父を見つけなんやかんやあって感動の再開を果たす話
*108:イザナギがこの3神に世界の統治を任命するも、スサノオは「マッマに会いたいんや‼」と拒否。キレたスサノオに勘当され追い出されることになったので最後にちょっくら姉のアマテラスのいる高天原に顔出しに行くも、歩く度に大地震・大氾濫起こしながらやって来るもんだからアマテラスはバリバリに警戒モードに。互いに儀式を行い、無事に成功したことから身の潔白を証明(この儀式で産まれたのが五柱の男神と三柱の女神で、この三女神が宗像大社や厳島神社等で祀られている宗像三女神)して無事高天原に入れてもらえることになりましたとさ
*109:天界での罪(天津神)に該当し、8つあるうち畦を壊す罪(畔放)、田を横領する罪(串刺)(内容は諸説あり)、馬の皮を生きたまま剥ぐ罪(生剥)、馬の皮を尻の方から剥ぐ罪(逆剥)、儀式中にう◯こする(糞戸)を犯す。生きた馬の皮を逆さに剥ぐだけで小三元
*110:放下僧の場合は半僧半俗的なもので、出自を禅家とし禅法を口にしたとされていますが、近世になると仏教色はほとんど薄れていったとか
*111:親を論争で殺された兄弟が放下の格好をし、親の敵である武士に敵討ちをする話
*113:仮の御所であった土御門東洞院殿が正式な御所と化し、これが現在の京都御所につながる
*115:まあ、この2ヶ月の台風で社殿が吹き飛んでしまい、今あるのは再建された後の社殿なんですけれどね
*116:その姉妹である頗梨采女と同一視されている歳徳神が直ぐ側に祀られているのも、偶然ではない何かを感じますね。感じない、そうですか、はい。
*117:守敏が始め雨乞いをするも全く効果がなく、続いて空海が雨乞いをするも同じく不発。どういうこっちゃと思い調べてみると、空海の活躍を妬んだ守敏が国中の竜神を瓶を閉じ込めていたことが発覚。ただ、奇跡的に善女龍王だけは守敏の手から逃れていて、空海はその善女龍王を召喚
*118:雨を降らせる修行
*119:蛇→水辺に住まうことから水神、また蛇→野ネズミを捕食→田を守ることより農耕神として性格も併せ持ちました
*120:八坂神社の旧称
*121:先述の通り、祇園社に祀られていた牛頭天王は疫病を司る
*123:サブマリンサンドイッチという意味では、地面の中ではなく海の中ですかね
*124:それはいつもチーズバーガーとポテトSで凌いでいるから
*125:露骨な尺稼ぎとか言わない
*126:まあ訪日客需要もあるんでしょうけれど