2018年圧縮編01 ~桜と、お城と、新緑の空きコマ~
どうも、いまだ続く夏らしい気温に、秋の到来を疑う既望路です
暑さも寒さも喉元までとは言いますが(言わない)、お喉元の時期はもう少し先ですかね
そんなこんなで今回も更新と参ります
9月後半に差し掛かると色々と忙しくなりそうなので、サクッと参りたいと思います
今回お届けするのは、久々の圧縮編
毎度と違わず、大学生活中のあれやこれやになります
4年経ったいまでは懐かしく眩しい気持ちもしますが、悲しきかな、中身も着てる服も交友関係も今と何も変わっていない
精々酒カスになったぐらいですねっ!!
大学生活もはや2年め
1年目より少しだけゆとりの出た日々の中で、片道2時間かけてやってきている京都を色々と練り歩きます
では、どうぞ
2018年圧縮編 その1
立命館・金閣寺から来たバス pic.twitter.com/6FLQScmWoH
— 既望路 (@after_full_moon) 2018年4月13日
はやくも行楽シーズンの京都に辟易とする日々
クッソ寒い冬を乗り越えて、ようやく春の到来です
2018年3月28日 お花見しようよ
ハイ!フジヤマ・ニンジャ・アイドル~
パーリラ♪パリラ♪ハイ!
ま・ん・か・い・スマイル♪
キラッキラッキラッキラッ
決まった☆
出だしからなんちゅうもんを…
というわけで世間はすっかり春です
部屋ではクーラーが唸り、外ではセミがワッシャワッシャ鳴いていますが、春と言ったら春なんですはい
4/17 一杯目「こってり」
大学生といえばラーメン
ラーメンあらずんば大学生にあらず
いつもは大学近くの阪急ベーカリーで買った税込み108円のパンで過ごしていますが、この日は珍しく奮発
やって来たのは某間違っている青春ラブコメのラノベにも出てきた、天一総本店*1
天下一品の総本店も位置するここ一乗寺・白川は、巷では有名なラーメン激戦区
学生の街とだけあり、大体の店舗が学割を実施しているのもありがたい
外食文化がほぼないので何気に初天一
(生活圏にも無いので尚更)
うむ、森羅万象の味
この日から――既望路は少しずつ、おかしくなり始めた。
4/27 伏見に聳える天下の城
この日は帰り際にぶらっとお城巡り
こちらのお城は伏見城
伏見城ってどんなお城?
こんなで
こんなんで
こんなの
はい、いつもの
桃山城はざっくり分けて五代あり(内、城は4代)
初代:豊臣秀吉の隠居屋敷
二代:初代隠居屋敷をお城に大改造(指月伏見城)
三代:二代が地震で崩壊したので、秀吉が場所を移して建て直し(木幡山伏見城)
四代:秀吉没後、三代目伏見城が関ケ原の合戦で焼けたので、家康が建て直し(徳川伏見城)
五代:徳川没後百数十年後に近畿圏の有力大名であるお近鉄が築城した城(伏見キャッスルランド)
となっております
もう少し掘り下げますか(
秀吉といえば大阪城のイメージが強いですが、それは天下統一までのこと
統一後は関白(天皇の補佐)として京都の聚楽第*2で政務を行い、跡取り(甥)が育つと聚楽第を譲り、自身は平安時代から続く観月の名所である、ここ伏見に隠居屋敷を構えました(初代)
その後、明(中国)との貿易でマウント取るため&本命の跡取り(息子)が産まれてその息子に大阪城を譲ることにしたのを契機に、初代の隠居屋敷を劇的ビフォーアフター(二期目)
天守閣は勿論、寺から五重塔を移設してきた他、宇治川を城下を通るように堤で捻じ曲げて、街道まで通すという大工事おまけにCVには釘宮理恵を起用
例えるなら家のリフォームついでに高層ビルに立て替えて公園作って、高速道路と鉄道まで敷設するようなもんですかね(あと家電のCVが釘宮理恵
その川の流れを捻じ曲げて、街道通したのが「太閤堤」と呼ばれるもので、巨椋池の開拓とかに絡んできます(
巨椋池のパートで出てきましたね
さてさてそんな豪華絢爛なお城でしたが、完成直後に慶長伏見地震*3が発生し、せっかくのお城が崩れ去ってしまいました
この傷ではもう無理なのじゃぁ〜!
部材の大半が後の城に再利用されたため長らく跡地が不明でしたが、近年になって工事現場からその城趾が見つかるというニュースも有りました(また工事現場から発掘か!)
実質400万で城趾に住めるってことですね
さて、そんなこんなで巨大城郭が地震でくぎゅうううと倒壊してしまったわけですが、僅かその2年後には近くの丘の上に木幡山伏見城が建てられました(三期目)
(部材はほぼ指月伏見城の流用)
こちらの木幡山伏見城も、指月に劣らず立派なお城で、天守は勿論、幾層の曲輪の他、城下町には大名屋敷も構えていましたあとCV釘宮理恵
ここが秀吉晩年の居城となり、1598年にここ木幡山伏見城で天下人は没することとなりました
翌年には家康が会津征伐*5に乗り出し、代わりに鳥居元忠がお留守番として入城
ここで勃発したのが、関ケ原の合戦の始まりとも言える、伏見城の戦い*6
この伏見城の戦いでお留守役の鳥居元忠は討たれ、三代目伏見城くぎゅうううと萌燃えてしまいました
この300年後に鳥羽伏見の戦い*7が起こるもんですから、たまったもんじゃないですね
その戦いの後に再建されたのが、四期目にあたる徳川伏見城実質×ハニカム
縄張りは木幡山伏見城のものがほぼ踏襲され、勿論天守も再建CVも釘宮(もういい
そして1603年には、ここ伏見城で将軍宣下の儀が行われました
つまりここ伏見城は、江戸時代始まりの地とも言えます
そんな伏見城は、当初こそ江戸幕府の政務も執り行われる中心地的な場所でしたが、大阪夏の陣*8後はその役割も薄れ、3代将軍家光の宣下の儀を最後に完全に取り壊しになりました
取り壊しの際、櫓や施設は福山城や淀城に、天守は丁度リフォーム中だった二条城へ再利用
余談ですがこのリフォーム中の二条城、元々大和郡山城から持ってきた天守が聳えていましたが、この天皇行幸の改修に伴い、伏見城の天守が新たに設けられることとなりました
じゃあ、二条城に元からあった天守はどこいったのという話ですが、その移築先が淀城でした
つまり淀城は伏見城から移築された施設と、伏見城から玉突きで追い出された二条城の天守からなるという寄せ集め城郭でした(これには銚子電鉄もびっくり*9
(例えるならJR西から水島臨海を経てひたちなか海浜鉄道にやってきたキハ20の内、足回り部分だけを臨海のキハ20を追い出したJR東のキハ30のものを使っている構図でしょうか( )*10
さて、文章ばかりで息が詰まりそうなので、ここで徳川伏見城(お嬢ver)ちゃんを一旦置いときますね
やや重めですが永続バフの計略があるので、祓串ゴリゴリマップとかでは重宝しそう
ただし肝心の平山祓串が徳川伏見と白石しか持ってないが現状
余談その2
福山城と聞いて「ハッ」と気づいたなら、もう立派な当ブログのマイスター(んな称号いらん)
ここに出てきた伏見櫓が、丁度その移築された櫓になります
この間改めて行ってきましたが、石垣部分含めると超でかい
天守じゃないんかいってぐらい
話題を戻しまして戻したところで大幅にズレてるとか言わない
合理化の流れで破却となった伏見城の跡地には桃の木がたくさん植えられ、そのことから「桃山」という地名が付きました
都名所図会*11にも「此の丘山に桃花を数千株植えて、春は夭々たる艶陽の質をなし、遠近此の山に集まりて春色に酩酊し、桃花の色を奪う」と記載され、桃見スポットであったことが伺えます*12
伏見桃山という地名や、伏見城の別名である桃山城の由来もここにあります
さて、そんな伏見城跡に次の城が建てられるのが、江戸、明治、大正を越えて、昭和に入ってからです
1964年に地元の有力大名である近畿日本鉄道が、ここ伏見の地に5代目伏見城を普請。当時の絵図にも「御城の座す遊園地也」と紹介されました
天守は洛中洛外絵図を元に徳川伏見城と同じ5層天守で、当時最先端の技術であった鉄筋コンクリート構造を以って築城
さてこのお城、表向きは伏見桃山城キャッスルランドの施設という理由での築城ですが、その実は、隣接する領国である京阪電鉄への牽制だと言われているとかいないとか
この城が築城される少し前の1950年代、この伏見城下で近鉄と京阪による奈良電鉄*13合戦が勃発しました
ことの始まりは京都進出を狙っていた近鉄が、経営不振に陥った奈良電鉄を自社主導で立て直しすべく、株式の取得に動きだしたこと
これを黙って見過ごせないのが、京都駅乗り入れと奈良進出を狙っていた京阪でしたが、当時自領の淀屋橋延長や、比叡山ドライブウェイの普請、江若鉄道*14の領地化等で財政は既にカツカツ
合戦では近鉄軍89万株の軍勢に対して、京阪軍も71万株の軍勢で挑みましたが、最終的には近鉄軍の勝利で終わりました(当時の近鉄国の大名である佐伯勇が残した「レールは1本で、2つに分けることはできん」の句は有名)
かくして近鉄は奈良電鉄の領地も手に入れ、見事京都駅へ乗り入れ
京阪の方は奈良電鉄時代と同じく、丹波橋からの乗り入れで京都駅へ直通運転を行うに留まりました
こうした経緯もあり現在でも近鉄は、京阪が乗り入れを行う丹波橋駅のすぐ東に城を構え、その動向を常に監視しているとのことです…(
さて、令和の現在でも丹波橋の北と南で目を凝らしてみると、怪しい線が見えてくるわけですが、それはまたいつかの回…(
(下書きならあるんですよ!別個で組もうとして詰んで、このまま記事が追いつくまで寝かしとくかぁと思ってたらそれすらいつの間にか追い越してて、ずっと放置されている下書きがっ!!!)
で、何の話でしたっけ
そうそう、伏見城
鉄筋コンで建てられた模擬天守で、当時は中も入れたみたいですが、現在は耐震性がびみょいということで立入禁止
テーマパークの施設ながら、当時の絵図を参考に頑張って復元したので、一時映画のセットにも使用されたとか
劇中では大阪城としての扱いみたいでしたが(
五七の桐紋一個取れて五七四やんけ
五七といえば秀吉の気がしますが、大阪城風に仕立てた際に付けられたのでしょうか…?
ともあれ、そんな一時は日本の中心地ともいれる存在感を放っていた伏見城
京阪や近鉄の他、新幹線の車窓からも気合で見えるそうなので、近くを通った際は是非チラ見してみてくださいな
降り出しそうな天気でしたが、降ってきました
雨と踏切と103系
5/15 新緑と思案の道
高校では「これが将来なんの役に立つんだ」と思うこともありましたが、大学では役に立てる方が難しい
中国の坊さんが視力を失いながらも仏教を日本に伝えた時のお話
今も昔も然程読めないです
そんなやな課題は全部ゴミ箱に捨てちゃって、ぶらっとお散歩
この日は3-4限が無い日なので、昼休み合わせて4時間の自由時間
イズミヤの阪急ベーカリーで買った108円のウインナーがめちゃくちゃデカイ焼き立てのパンを片手に、銀閣寺行きのバスへ
哲学の道です
元々は横を流れる琵琶湖疏水分線*15の管理用道路だったらしく、保存運動に際し「哲学の道」と名付けられたとか
写真じゃ分かりませんが実際に見てみると、水は南から北に向かって流れていることがわかります
鴨川や天神川などの川は総じて北から南に流れているわけですが、ここは山沿いということもあり、上手いこと北に流れるようになっています
確かに、ゆるゆると低くなっている気がします(
まあ、河床の高さもありますが
ほぼ同緯度の鴨川
こっちもゴリゴリ浚渫されてたりであまり比較にはなりませんが、意外と下り坂です
といっても3‰弱なので雑魚ですが
まあそんな、意外と珍しい特徴を持つ川の沿いをゆきます
道中の地蔵さん
ちょいと逸れて法然院へ
ここ法然院は浄土宗のお寺で、浄土宗の開祖である法然上人とその弟子である安楽・住蓮が別時念仏*16や六時礼賛*17を行っていたという縁の寺
承元の法難*18以降はすっかり廃れてしまいましたが、上記の通り縁あるお寺ということもあり、江戸時代に浄土宗門徒によって復興されました
苔がキレイで、紅葉の時期はまた一段とキレイになるでしょう…
参道っぽい道をゆく
再び哲学の道へ
哲学の道の名の由来は、明治の頃、京大教授でもあった哲学者 西田幾太郎*19が毎朝この道を歩きながら思案に耽ったことに由来するそうです
安楽寺や大豊神社の近くも通りながら、哲学の道終端に位置する熊野若王子神社へ
更にその先には永観堂
秋頃になると市営三条京阪駅から京阪の三条駅に向かう道中に、みかえり阿弥陀像の広告が掲示されますが、そのみかえり阿弥陀が安置されているのがここ永観堂
中興の祖である永観が阿弥陀仏像の周りを念仏唱えながらひたすらグルグル回る修行をしていたとき、半分寝ながら回っていたところ突然阿弥陀仏像が共に歩き出し、それにビビって立ち止まったら阿弥陀仏像が振り向き一言、「永観遅し」と言ったそうで
それ以来仏像の首が振り向いたままという実質ホラーありがたい伝説が残ります
ご覧の通り苔と紅葉が大変綺麗で、秋には相当賑わいます
拝観料かかるので、これは適当な隙間から覗いた写真です、はい
定番のスポット
丁度インスタが流行りブーム真っ盛りの時期ということもあり、以前より自撮り連中が多い気がします(
写真撮る人と違って、風景の中に入っていくから相当厄介
今回の人避け耐久ゲーは7分でした
禅寺では日本トップの超ツヨツヨ地位を誇ります
こっちはインクライン
蹴上に差し掛かると琵琶湖疏水は下り坂となるので、登りの船は台車に乗っけて、この線路で上へ運んだとか
さっきのインスタ映えまたおる
そんなこんなで軽く哲学の道を歩き通し、大学へと戻りました
五限の講義は近代文学概論
すっかり講義序盤の恒例となっている、講師による雑談タイム
そしてその雑談の内容でふと気づく
今日、葵祭の日やんけ
哲学の道をのんびり歩いている西方数キロ先で、年に一回の祭りが催行されていました
絶対そっち行ってたほうが良かったと思いながら、来年も講義が当日に被らないことを祈りました
さて、気がつけば7000字に達しようとしています
この回20000字書けというプラカードも見えてきそうな気もしますが、どうしましょうか
元は4-6月の四半期区切りの圧縮編と考えていたのですが、もう眠いですか、そうですか
まあ、なんやかんや*20で時期も空いちゃいましたし、ここで一旦区切っておきますか
次回も引き続き圧縮編
全然圧縮できていない辺り、きっとこのブログは非可逆圧縮ファイル
調子乗って7月分まで入れ込んでしまうかもしれませんが、どうするかはまた当日の状況次第
せめて次の更新する頃はまだ紅葉が散っていないことを祈ります
(冒頭で鳴いていたセミ兄貴はもれなく天寿を全うしちゃいましたからね!!)
今回もお付き合い頂きありがとうございました
また次回も楽しみにして頂ければ、至極幸いでございます
では、以上
*1:そう、何気に天一は京都発祥の店舗。来来亭や魁力屋、横綱も何気に京都発祥
*2:秀吉が洛中に建てたでっかい城。10年足らずで破却
*4:当時、家康並みに権力を持っていた前田利家は既に病死、石田三成も佐和山へ蟄居でほぼほぼ家康の時代
*6:三奉行(五奉行の内、三成が家康によって滋賀に飛ばされ、浅井長政も家康暗殺の疑いで飛ばされ、残ったのが3人)が家康をぶっ潰すべく、まずは伏見城を攻めた戦い。実質関ヶ原の戦いの前哨戦
*7:戊辰戦争の初戦。関ヶ原が江戸の始まりなら戊辰戦争は江戸の終わり
*8:幕府が敷かれた後も依然徳川にとって脅威だった豊臣家は、この戦いでの敗北を持って滅亡
*10:実際は水島210を置き換えたのは自社発注のMRT300で、後年久留里組に置き換えられたキハ20はもれなく廃車。ちゃんとしたリアルな例もありそうですが思いつかない
*12:参考:平安京都都名所図会データべース>
*13:近鉄と京阪が互いに株の大半を保有する私鉄で、京都と大和西大寺を結んでいた
*14:大津~近江今津を琵琶湖の北岸を沿って走っていた鉄道で、湖西線の建設に伴い廃線。
*15:琵琶湖疏水は琵琶湖から東山を抜けて蹴上・鴨川に至る疎水で、明治の初頭に完成。そしてこの疎水分線は、蹴上から北に分岐し、哲学の道の横を通り、高野川・賀茂川を潜り、松ヶ崎を経て堀川にまで至る水路
*16:期間を定めた上で、その間ひったすら念仏を唱えまくる修行。普段の念仏がログボ受取りついでに体力分だけやる周回なら、別時は追込みのため体力回復しながらでも周回し続ける方。
*17:一日六回、決まった時間に行う法会(念仏や読経、礼賛等)。デイリーミッション。
*18:クッソイケボでクッソ歌上手い坊主の安楽・住蓮が、リズムに乗りながら念仏を超イケイケVoiceでduetしてたら、天皇の女官達がそのイケボにムリしんどい尊み深しで堕ちてそのまま出家。これにブチギレプンプン丸した熊野詣帰りの上皇が二人を処刑し、法然らも流罪にした事件
*19:京都学派の祖。参禅の経験と西洋哲学の研究から主客未分の純粋経験の立場を論じ、その後はその論理的深化につとめ、絶対無、すなわち場所の論理に到達。晩年は絶対矛盾的自己同一の理論により歴史的世界の構造の解明を目指した。なるほどわからん。(参考:岩波仏教辞典第ニ版,岩波書店)
*20:相次ぐ旅行・出張ラッシュで空き時間が全然ない事案