長月のチャリンコ上洛旅 ~その2 平安と室町の中核、月明りのパーフェクトスクウェア~
どうも、気がつけば6月が終わろうとしていた既望路です
早速セミ兄貴がオッスオッスシャアシャア鳴き始めています
外はジメッと蒸し暑く、室内は冷房ガンガンで寒い
そんな服装に困る時期の近況報告へと参りましょう
とある事情により東京の方へと飛ばされていました
(前に来た時はLSEが潮時でした)
何気に初めてみたトンキンタワー
このカクっと折れた足が無茶苦茶エロいエモい
あとどれだけ走っているのかなぁと
(望遠足りない事案)
せっかくなので紫陽花を見に登山
とんぼ返りでも良かったのですが、水曜4限蹴って2日に伸ばしました(ゲス)
平日朝の移動が辛いのと、どこに行っても人で溢れていますが、それでも中々楽しい場所で
まだまだ見ていない私鉄がたくさんあるので、1週間ぐらい滞在したい
とまあ、そんな6月でした
もう一つある意味世界的なイベントが6月の末に行われましたが、これは次回の前書きあたりで出てくるかもしれませんし、出ないかもしれない…
(まあ、Twitterには載せたんでどっちでもという)
ぼちぼち本題へ入りましょう
前回はまたまたまた自転車で京都に上洛して、伏見やら城南宮を通り過ぎ、現梅小路京都西駅あたりまで来たお話です
地図にするとこんな感じ
ではどうぞ
長月のチャリンコ上洛旅 その2
平安の中核ここにあり
新駅開業だったかで消えると聞いて見納め
ここから更に北上
松尾神社御旅所
松尾大社はお酒の神様として有名ですかね
賀茂神社(賀茂別雷神社*2と賀茂御祖神社*3 )や伏見稲荷大社と同じぐらい、京都において古い歴史を持つ神社なのですが、何かと影が薄い
松尾大社は阪急嵐山線の松尾大社駅からすぐ、そのうち記事に出るかもしれません(
こんな顔ですが吊りかけなんですよね
(未だに吊りかけ以外が圧倒的少数派の嵐電)
駅周辺には商業施設が多く、休講時は大体ここのゲーセンで時間つぶしてます
大極殿跡なるものがあります
大極殿とは大内裏内の朝堂院の中にある建物の一つで、儀式などを行っていたとか
以前にも出た、平安京建設計画マップ
この丁度北にある大内裏が、天皇が住んだり政務を行ったりする場所になります
大内裏の主な構成としては
・内裏:天皇のお家
・朝堂院:政治を行う場
・豊楽院:国家的な飲み会会場
・その他諸々の「~省」なる建物*4
といった感じで、その中の朝堂院にも色々建物があり、その北の中央に大極殿があります
ざっっっくり図にするとこんな感じ
ブログ遅延の原因
地図の紫のエリアがそのまま大内裏に
赤い朝堂院のエリアを拡大したものが右になりますね
大内裏のど真ん中に構えている朝堂院の更にど真ん中に構えている大極殿
なんとなく、シンボリックな建物というのが分かります
平安中期で既に火災に遭い、ほとんど荒廃状態だった大内裏ですが、この大極殿だけは(正面からですが)内裏と共になんとか修復が続けられました
それだけ重要だったんですね
まあ、そんな大極殿も鎌倉期には既になくなり、大内裏も内野と呼ばれる空間になっていたそうで
そんな政務の場所である朝堂院の8分の5モデルが岡崎の平安神宮です
写真間違えました
これです
ど真ん中に構えるのが大極殿です
(写真傾き案件)
こんな建物が千本丸太町の辺りに建っていました
なんのこっちゃという方は、「美に入り特訓後の背景の元があった場所なんだなぁ」と思っていただければ
卍また帰っくるために卍
この辺りから今度は東へ
二条城の南を通り過ぎていきます
元は天皇による庭園でしたが、今ではお寺扱い
境内にある法成就池には善女龍王という水の神様的な神様がいます*5
空海を始めとする密教僧によって度々雨乞いが行われたほか、平安中期には疫病のためこの神泉苑に大量の鉾を建て、祇園社から神輿を取り出して病気平癒を祈ったこともあり、これが現在の祇園祭の原型とされています
元大内裏の南にあった、ありがたいお庭です
絶賛修復作業中の二条城東大手門
2017年に3年に渡る工事が終わりました
お次は堀川通を北上
一条戻り橋
堀川に架けられた、一条通の橋です
その名前の通り、只ならぬ噂が多々ある橋です
平安中期にはとある漢学者の葬儀の際、父の死を知って戻ってきた息子が、この橋の上を通りがかった父の棺桶にすがって祈ると、父が蘇り共に抱き合ったそうで
そんな死者復活の地であったため、「一条戻り橋」という名が付けられたとか
また、平家物語では源綱という武士が夜にここを通りがかった際、美しい女性が「夜が更けて怖いので、家まで送ってくれ」と言うので、それを承諾すると女性は鬼に変わり、源綱を連れ去ったという話も
実はこの女性が貴船神社で丑の刻参りをし、宇治橋で橋姫と化した鬼だったとか
丁寧な解説はこちらで
そして3年越しの伏線回収
他にも、「戻る」ことから、結婚を控えた女性が渡ることがタブーとされたり、逆に太平洋戦争時はここを渡って戦地へ赴いたとか
ちゃっかり上白沢慧音のスペカにもなってます
そんな戻り橋とも2ショット
無事家に帰れるように祈ります
安倍晴明は平安中期に、主に陰陽道*6や天文道*7、暦道*8などにおいて、宮廷をサポートした人物で、かなり人気があったそうで
雨を降らせたり、病気を直したり、卍悪霊退散卍したり、挙げ句死後には式神を扱っていたとか、母親は狐だとか色々盛られた人で、死後は安倍晴明を祀る神社も建てられました
それがこの晴明神社です
最近はフィクションにも陰陽師が登場するようになり、この神社も女性を中心にたくさんの参拝者が訪れる場所になっています
凄いですね、陰陽師(
( ゚∀゚)o彡°どーまん!せーまん!*9
余談ですが、千利休がさらし首にあったのもここだとか
幾百年ぶりの都
こちらは「白峯神宮」
「神宮」ということで、皇家関係の神様が祀られており、ここも淳仁天皇と崇徳天皇が祀られています
淳仁天皇は平安初期の47代天皇で、藤原仲麻呂(恵美押勝)と関わりがあったものの、恵美押勝の乱*10で藤原仲麻呂が失敗したため、ついでに淡路へ島流しされた天皇です
今でこそ「淳仁天皇」と立派な名前がついていますが、明治時代までは「淡路廃帝」という寂しげな名前でした
崇徳天皇は平安中期の75代天皇で、鳥羽上皇*11の崩御後に、後白河天皇と後継ぎ争いでトンパチしたことで有名です
この跡継ぎ争いですが、皇家の争いだけでなく、藤原家内の争いと平氏内の争い、そして源氏内の争いも絡み合ったことで有名で、「保元の乱」と言われています
そんな武士の時代の始まりである「保元の乱」で負けた崇徳天皇は、讃岐へ配流され、そこで崩御します。(悪人扱いだったので、当然葬式もなし)
晩年、讃岐でお経を書いて保元の乱の死者を弔おうとした崇徳天皇は、このお経を京都で奉納するようにと後白河天皇に頼むも、後白河天皇はこれを拒否。ブチ切れた崇徳天皇は舌を噛み切り、その血で「天狗になってやる」「この文章を地獄に回向してやる」だとか物騒なことを書いて、崩御まで髪や爪を伸ばし続けたとか
それだけなら良かったのですが、その後延暦寺の坊さんたちが暴れだすわ*12、大火事が起きるわ*13、皇家の人間がどんどん亡くなるわ*14で、只ならぬ状態になり、街中でも「これは崇徳天皇の祟では」と言われるまでに
天狗になった崇徳天皇
そのブチ切れっぷりが伺えます
そんな京都から遠く離れたところで眠る二人の天皇を、この京都で祀ることになったのが明治の初頭で、それがこの白峯神宮です
ざっくり言えば、島流しにされたかつての天皇を京都で祀るために建てられた神社です
この神社が建てられた場所が、蹴鞠の家系である飛鳥井家の屋敷の跡地だったので、白峯神宮の末社に精大明神という鞠の神様も祀られています
そのため、白峯神宮=鞠の神様 という認識になっています
今では鞠から拡張され、サッカーの神様、スポーツの神様として信仰されています
私には無縁の神様ですが、スポーツの大会を控えている方は、寄ってみても良いかもしれませんね
室町の中核ここにあり
堀川今出川から東へ
「依是東北 足利将軍室町第址」
かつてここには「室町殿」と呼ばれる建物がありました
別名は「花の御所」、室町時代に幕府によって政治が行われた場所です
(鴨川の水を引いて、たくさんの花々が植えられたそうで)
南北朝時代、北の京都で足利尊氏(光明天皇)が、南の吉野で後醍醐天皇がそれぞれ正当性を主張していた後、3代将軍足利義満の時代にやっと南北が統一されます
その際、義満が作ったのが、この室町殿でした
正門が西側の室町通に面していたことから、室町殿と呼ばれ、そこで政治が行われたのでこの時期を「室町時代」といいます
義満はこの室町殿の他にも、里内裏*15であった土御門東洞院殿を拡張(それでも室町殿の半分)したり、クソでかい範囲に渡る相国寺を建設したり、晩年には北山殿という隠居先*16を作ったり、色々やっていました
この相国寺には今はありませんが、108mぐらいの巨大な七重塔も建てられ、大正時代までその記録が抜かれることは無かったとのこと
これらの建物をざっっっくり地図にするこんな感じ
グレーのエリアは空き地です
(意外と狭かった京都、これは北エリアだけですが)
個人的に興味深いのが、仮の内裏であった里内裏が、今の京都御所の原型になっているところですかね
そんなかつての室町時代を支えた跡地を示す石碑が、ひっそりと建っています
なぜかお城のゲームに出てきます
門前町の紅葉ガール
さらに東へ進み、いつもの鴨川デルタへ
出町柳まで来たなら…
叡電ですね
わたしたちはここにいます(生存報告)
がんばるぞい号
また新しいキララHMを拵えてやって来ました
「わかばガール」です
(その下にはちゃっかり「もみじガアル」、鞍馬線沿線には紅葉のスポットがたくさんあります)
初めては叡電でもいいよね
南海ではありませんでした
また別のHMが来ました
「城下町のダンデライオン」です ブレ…
折返し
「門前町のエイザンデンシャ」
パトデン
そろそろブレが酷いので撤収
完全で瀟洒な夜道に
琵琶湖疏水に照る月
丁度東山の辺りから上ってきたあたりです
スーパーズームくん発動
きれいなお月さまです
ほとんど欠けていませんが、満月ではなく「十六夜」の月になります
この日は旧暦8月16日
この「いざよい」という言葉は「猶予う(いざよう)」という言葉から来ており、意味は「躊躇っている、中々進まない」
月は満月を境に翌日からだんだんと出る時刻が遅くなるので、十六夜は十五夜に比べて少し遅い、つまり「出るのを躊躇っているように見える」とされたようで
そのような意味から「いざよい」と呼ばれるようになりました
また、他の別名としては、「既に満月を過ぎた」ということで「既望」、「夜の間に出ている時間が長い」「夜を知らない」ということで「不知夜(いざよい)」などの呼び方があります
翌日以降も「立待月(たちまちづき)」*17「居待月(いまちづき)」*18「寝待月(ねまちづき)」*19「更待月(ふけまちづき)」*20と、だんだん遅くなっている様が呼び名にも現れています
余談ですが、「十六夜の昨夜」は「
「
「躊躇っている、中々進まない」時間は誰の能力によるものか、そちらも奥深いもので
そんなブログタイトルにもあるお月さまを眺めながら、京都の街を南下していくことにしましょう
八坂神社と十六夜
2ショットも
こちらの塔は「法観寺」にある五重塔で、お寺自体は平安以前からあるそうで
雲に隠れたり出たりと忙しいですが、月光を孕んだ薄雲もまた良き
そういえば京都にはもう一つ有名な五重塔がありましたね
こちらの東寺の五重塔ですね
アングル的にはやや厳しいものがありました
(電燈)
あとは十六夜の光を背に受け、中々進まないペダルを踏みしめ帰路につきます
とまあこんな感じで終えた京都散策
今回分をまとめますと、こんな感じになります
(琵琶湖疏水はもう少し北)
具体的な宛先もなく、地図片手にブラブラした散策でしたが、色々と見れた感じはあります
距離は95kmと、今までの自転車旅に比べれば少し少なめ
(まあ、思いつきでしたし)
思いつき…
京都…
なんで…?
あっ…
国 勢 調 査 の ポ ス タ ー
探 す の 忘 れ た
何のために京都まで行ったんだという
(十六夜見れたのは良かったけど)
後日、福井トワイライト撮りに行った際に、運良く京都駅で見れました
(120円で足りた)
ポスターは京都と縁深い、「いなこん」のポスター
最終回でコケてお蔵入りと化しただけに、今見ると少しさびしい気も
そんなチャリンコ上洛旅、如何だったでしょうか
疲れた? 私もです(
今回は十六夜について少し語っておしまい、と思っていましたが恐ろしいもので…
さてさて、次回はついに年明けっ… できたらいいですね(希望)
そんな感じで行きますので、次回もお付き合いいただければ幸いです
では、以上