どうも、長かった春休みもいよいよ終わろうとしている既望路です。
2月はみっちりバイト、3月は色々あって心休まらず、4月も現在進行系で疲弊と現実逃避の繰り返し
エンジョイには少し足りない、そんな長期休暇でしたね
夏はゆっくり羽を伸ばせれば良いのですが、さて、それまでに終わるのか…
さて、恒例の時事ネタを入れておきましょう
(時差のせいで近況報告も時事ネタに)
以前から久宝寺~放出を結んでいたおおさか東線が、ついに新大阪まで延長しました
放出以南の南区間は2008年に部分開業、北区間は2012年に開業予定でしたが、用地買収に手こずったり、東淀川駅の開かずの踏切問題で揉めたり、北梅田駅構想が浮上して計画変更したりで、7年遅れて開業しました
そう思うと4年遅れて進行しているどこかのブログのことも、些細な問題と思えてきますね
え?それはない?そうでしたか()
ピカピカの新路線を走るのは、環境にも配慮されたエコなサイリスタチョッパ制御車です
阪和線の205系は103系の置き換えで大方使い尽くしたので、あとはどこから持ってくるんでしょうかね…
(JR東「ん?205系が欲しいだって?」)
本当に車内で再開できるとは…
これであとは…
阪和貨物線の旅客開業となにわ筋線の完成を待つだけですね!!!
東線開通の遅れよりかは早い段階で記事に出来ればなと(遠い目)
それと…
ついに今年も桜の時期がやってきました
そろそろ満開ですかね
一応2016年の桜の写真も記事にできるぐらいにはありますが…
遠い未来のことです(開き直り)
さてさて、冒頭500文字の近況報告を済んだので、そろそろ本題へ…
時は2015年6月13日
2019年4月中に2015年4月の記事を仕上げ、2015年6月の記事に入れたので、なんとか3年10ヶ月遅れにまで巻き返せました!
この調子で! うん、 いけたらね…
では、どうぞ
今日も京都へ
朝6時
私は坂を登っていました
どこか既視感のある坂を、うんともすんとも言わないペダルを力いっぱい踏みつけて
事の発端は高校での授業中
高3の5月に入り、やれ受験、やれ勉強と、どこもかしこもそのことでやかましく言葉を重ねます
3年に入り心機一転、LINEのグループは全て抜け*1、毎日読んでいた本は英語の単語帳に、休憩時間は常に単語帳に書いてある文字を目で滑らせる日々
誰もが勉強に、就職に、公務員試験に身を投じ、常に重苦しい空気が漂っている、そんな学び舎
微塵も頭に入らない異国の単語
微塵も身につかず、日数だけがただただ経っていきます
英語は爆発したら良いと思う
どっかでかけたいな…
夏遠征が無いのでそう思うのも、なおさらのこと
そうだ、京都行こう
思い立ったが吉日、その週の土曜に早速出発です
そんなこんなで、せっせこ自転車をこいでいます
そう、遠い先の卒業旅行*2の資金を貯めるべく、絶賛節約中なのです
ちなみにこちらは木津川、奥に流れ(た)橋の橋脚が見えます
第二京阪と京滋バイパスの交差地点に有る、「久御山ジャンクション」
楽しいです
上から見ると綺麗なタービン型を描いています
偽物語で阿良々木くんが火憐ちゃんと戦っていた場所もここだそうで
(シャフト好きっすよね、こういう場所)
消えた池
池といっても、そんな池はどこにもない
ですが、確かにそこには京都府最大の湖がありました
そう、今立っているこの場所も、かつては池の中だったのです…
こちら、現代の航空写真
便宜上、この辺りを流れる川に色を塗っています
南東から北へグワーっとやってきているのが宇治川(淀川)で、山のすぐ麓が宇治になります
そして、上からやってきている川の一番左が嵐山の渡月橋で有名な桂川、北の方で桂川から枝分かれしているのが、三条大橋やらで有名な鴨川
中書島の辺りからまっすぐ北に伸びているのが、新高瀬川(東高瀬川)
下から生えて、北西にググッと曲がっている大きい川が木津川
そしてそして、真ん中にポッカリと田園が広がっているのはお分かり頂けるでしょうか
それが今回のメインになります
ここで時代を一気に1200年ぐらい前に戻します…
ドン
だいたい池ですね
(地図は画像検索で出たものを参考に、それっぽく作りました)
宇治川が宇治橋の向こうで広がって、桂川と木津川と合流して一本になってます
京都へ行く際は、この水たまりの右(丁度JR奈良線の辺り)を迂回していたそうで
この時代の北側は島が多く、現在の地名でも使われる「中書島」や「向島」は当初、文字通り島だったそうで
ここで多くの人が魚や鴨、植物を採って生活していました
それが形を変えるのが、安土桃山時代
豊臣秀吉が大胆に治水工事をします
それがこちら
「堤」という堤防のようなものを築き、川の流れを調節しています
特に「槇島堤」は、大阪城に続く居城であった伏見桃山城の麓に宇治川を誘致する役目を果たしている他、現在の宇治川の原型にもなっています
(川を下れば淀川に横付けされてる大阪城にも楽々移動できます)
この「槇島堤」により、この大きな水たまりは、本格的な池と化します
また、「小倉堤」を築いて新規ルートも開拓しています
南から京都に向かう人は、自ずと桃山城の下を通ることになりますね
これから更に数百年が経ち…
明治時代に入る頃には、完全な池になっていました
(1910年の地図をトレス)
安土桃山時代には辛うじて残っていた宇治川からの流れも、長年の堆積により塞がれてしまいました
また、明治の治水工事で木津川のルートを西側へ変更、宇治川の流れもいじりました
これにより、巨椋池はほぼ水の流れてこない、池(というか沼)状態になりました
(古川が南から流れていますけど、小さい川なので無いも同然)
これがただの沼だったらよかったのですが、生活排水、農業排水ダダ漏れの沼だったので、水質は悪くなる一方だったそうで
魚は採れなくなり、挙げ句マラリア蚊の温床にもなっていたので、ついに大規模な干拓計画が始動します
それが1933年、昭和8年のこと、実に8年の歳月をかけ、咲洲といい勝負ぐらいの面積の池が姿を消しました
今でも京都大阪に近い大農業地帯として、京阪地区の農業を支えています
もし、近鉄京都線を利用させる機会があれば、小倉~向島間は少し西側に目をやってみるといいかもしれません…
スーパー脱線コーナー終了、本線復帰
菊と葵の攻防
2ヶ月前に訪れた、近鉄京都線の澱川橋梁が見えます
鳥たちがグエグエと
(鳴き声なんて覚えていませんが)
鵜か何かでしょうか
京阪本線とオーバークロス
寝屋川以北の貴重な直線区間という
こともあり、この辺りは80~90km/hぐらいでぶっ飛ばします
(しかしすぐ先は特急停車駅)
中書島の辺りで阪神高速(巨椋池より阪神高速8号線に)から逸れ、中書島の街中へ
「電気鉄道事業發祥の地」
1894年(明治28年)に、日本初の旅客用路面電車がこの地に開業しました
明治維新以降、1100年間京都にいた皇家が東京に移ることで、意気消沈としていた京都に再び活気を戻すべく、京都に琵琶湖疏水の建設と、日本初の水力発電施設である蹴上発電所の建設が企画されました
この蹴上発電所で作られた電気の安定した供給先として作られたのが路面電車でした
(電力会社が路面電車を走
らせるのもよくある話)
日本初の路面電車の旅客開業は、京都駅の近くからこの中書島にある京橋までが最初に開業し、数カ月後には七条から第4回内国勧業博覧会の会場であった岡崎までの線路も開通
京都に再び活気が戻ったときでした
その記念すべき最初の場所が、この場所だったわけです
(見事な脱線回避)
この京電もやがて市電に統合され、最後は廃止になってしまったわけですけど
さっきの発祥の地から少し南下
「伏見口の戦い激戦地跡」
明治初頭の、旧幕府軍と新政府軍による戦いである「戊辰戦争」の始まりの地です
江戸の末、ペリー来航*3や不平等条約の締結*4、湧き上がる尊攘運動*5、尊王攘夷派を弾圧した安政の大獄*6や、それに伴う桜田門外の変*7など、ややこしい問題が立て続けに起こると、外国とどう接するのかを論点に朝廷と幕府の間に若干の亀裂が生じるようになっていました
江戸時代の間はずっと幕府が政治を行い、朝廷はそれ見ているだけだったのですが、幕府の弱体化に伴い朝廷も政治に関与するように
幕府としてはこのままでは政権の在処が曖昧になり、そのまま朝廷に戻ってしまう恐れがあったので、「ここでもう一度、政治をどうやって運営していくか考え直そうじゃありませんか」と再び政権のを確認、あわよくば朝廷と幕府を合体させて、幕府主導の政治を行う公武合体策へもっていこうとしました
実際、この公武合体の実現のために、老中安藤信正は、天皇の妹である和宮と将軍徳川家茂を政略結婚させましたが、公武合体をよく思わない尊王攘夷派によって非難、安藤信正が坂下門外で尊王攘夷派に襲われ、老中を降りる事件も発生(坂下門外の変)
このように当時は、ざっっっっっくり分けて、2つ
・公武合体派(幕府の権威維持)
・尊王攘夷派(幕府を廃し、政権を朝廷に)
に分かれていました
ですが、もともと尊皇攘夷派は、尊王(朝廷万歳、幕府廃絶)と攘夷(鎖国維持、外国勢力に徹底抵抗)が合わさったもので、公武合体派にも攘夷を唱える人はいましたから、便宜上以下の通りに分けておきます
・存続派(幕府の権力維持)
・倒幕派(幕府を廃する)
幕府VS朝廷とでも思っていただければ大体正解でしょう(
安藤信正が政略結構で炎上していた頃、薩摩の藩士であった島津久光もまた、ひとつの公武合体策を持ち出していました
一見、幕府以外には特にメリットもなさそうなこの公武合体策ですが、当時はこの騒動に便乗して朝廷と幕府の合体に加え、諸藩(有力な藩たち)も一緒に政治に参加する挙国一致の公儀政体論というものがありました
(構図としては「朝廷&幕府+諸大名」*8)
この島津久光(薩摩)も、その朝廷と幕府の合体で幕府を存続させた上、更に自分たちも政治に加わろうとする考えの立ち位置でした
そんな島津久光は朝廷経由で幕府に改革を提案、幕府はこれに乗って「文久の改革」によって安政の大獄で締め出しを食らっていた徳川慶喜を復帰させることに
また、これ以降大して力を持っていない諸藩の大名もあれこれ口出しするようになります(口出しする方もそうですが、口出しされる幕府もそこまで権威が落ちたってことですかね)
この後、存続派の薩摩藩と会津藩は、京都にたくさん蔓延っていた倒幕派を一掃(八月十八日の政変)、これに抵抗する倒幕派はあちこちでテロ(天誅)を起こし、討幕を挙げます
騒げば更に押さえつけられるのが世の常で、新選組が倒幕派を襲う池田屋事件、京都に戻ってきた長州が再びボコボコにされ追い出される禁門の変(蛤御門の変)などが相次いで起き、挙げ句長州は攘夷攘夷と外国に喧嘩を売っていたため、その報復にイギリスとアメリカとフランスとオランダが下関へ襲撃、ほとんど一方的に嬲られました(四国艦隊下関砲撃事件・下関戦争)
一方、八月十八日の政変以後、存続派の朝廷*9は邪魔な倒幕派を追い出したのはいいものの人手不足に陥り、幕府の徳川慶喜や諸藩の藩士を呼び会議を開くことにしました(参預会議)
ここに、朝廷&幕府+諸大名による政治運営が垣間見えることとなります…
あとはこのメンツで日本のこれからについて話していくわけですが…
どうも、この会議で幕府と諸大名(特に薩摩藩)の意見が度々食い違うようで
時間だけが過ぎる無駄な会議に諸大名も呆れ帰っていったそうで
後日、四侯会議として再び朝廷&幕府+諸大名の会議が開かれましたが、また意見が食い違いあっさり瓦解
これにより、幕府との共生を断念した薩摩藩は、倒幕派へと鞍替えすることになります…
一方、存続派と四国艦隊からメチャンクソのボロッカスにされた長州にも新たな動きが出てきました
それが攘夷論の転換です
(まあ、あれだけ海外に痛めつけられればそうなりますね)
長州藩倒幕派の内、高杉晋作と桂小五郎が中心となり再び体制を立て直し
高杉晋作は奇兵隊という農民と武士の混成軍で隆起し、更にイギリスに接近して武器を輸入するなど着々と倒幕の準備を進めていきました*10
これだけでなく、長州には薩摩という心強い同士もいました
そう、かつて存続派であった薩摩藩は、倒幕派であった長州藩と仲が悪く、八月十八日の政変と禁門の変でバチクソに殺りあった後、その敵対関係は決定的なものとなっていました
ですが薩摩藩は後に倒幕派へ鞍替え、そして坂本龍馬・中岡慎太郎の仲介により薩長同盟も結んでいました
一方、幕府は再び勢力を付けてきた長州を懲らしめるべく、長州征討を宣言。しかし、なぜか薩摩藩が動かない
仕方がなく薩摩抜きで攻め入るも、圧倒的な力の差に惨敗。将軍家茂の急死を理由に撤退しました
(幕府軍10万2千に対して、長州軍は3500人でしたが、これでも刃が立たず)
徐々に風向きが変わり、倒幕の風が吹き込んできます
この倒幕運動展開の最中、農民による世直し一揆や、打ちこわしなど、民衆の間でも無能な幕府をぶっ潰せ運動が起こるようになりました
(この激動の最中、日本三大新宗教と言われる天理教、金光教、黒住教が発足しました)
ついに立ち上がった倒幕派の薩長両藩、これを受けてあくまでも公武合体の立場をとる坂本龍馬が山内容堂経由で将軍の徳川慶喜に、天皇へ政権を返還することを勧め、慶喜もそれに承諾し大政奉還の上表*11を朝廷に提出しました
慶喜「幕府主導で行きたいけど、流石に権威も落ちてるから、表面上は朝廷に政権を返還し、天皇の元で旧幕府主導の政治を運営していこう」
(坂本龍馬「後は旧幕府の勢力を徐々に削げば、いい具合に落ち着くはず」)
丁度同じ日に倒幕派の岩倉具視と薩摩藩長州藩が徳川慶喜暗殺計画((討幕の密勅))を実行に移そうとしておりましたが、出鼻をくじかれる形に
(慶喜が政権を返還したなら、表向きは倒幕の必要がなくなる)
倒幕派「表向きは政権が天皇に移ったが、このままでは結局以前と何も変わらない体制になってしまう… なんとしてでも旧幕府抜きの政治を確立せねばならない。そう、例え旧幕府を亡き者にしてでも」
(坂本龍馬「ゆっくりやっていけば幕府も落ち着k… ん?こんな時間に誰かが…ウワナニスルヤメr」)
後日、何としても旧幕府勢力を潰しておきたい倒幕派は、倒幕の第一歩として「王政復古の大号令」を発布し、旧幕府の政権剥奪、従来の体制*12を一新し、有力諸藩主導の政治体制を構築
(倒幕派によるクーデター)
ここに明治以後の新政府スタイルが樹立することになります
この後、王政復古の大号令によって新たに決まった政治体制のもと、小御所会議にて慶喜の処遇を話し合い。
結果、慶喜には辞官納地*13が命じられ、これに納得がいかない慶喜は大阪城に籠城、徹底的な抵抗を決意しました
流石に完全排除されては困る慶喜も、徳川のプライドの下に巻き返し、ついに旧幕府主導の政権を奪取する流れに漕ぎ着ける
これに危機感を抱いた倒幕派は存続派を煽り、ついに武力衝突
これが戊辰戦争の始まりです
大阪城及びその近辺に配置された旧幕府軍は打倒倒幕派を胸についに出兵、新政府軍もこれをうけ出兵、ついにここ伏見で両者が衝突します
数は旧幕府軍の方が多かったものの、新政府軍の鉄砲による弾幕射撃の末撤退
淀の方の戦いでも指揮官の相次いで戦死、挙げ句新政府軍が朝廷の軍の印である錦旗を掲げ、旧幕府軍は国家の敵扱いに
ただ己が忠義を尽くす将軍のために足掻いていただけなのに、国家の敵になってしまった旧幕府軍
こうしてみると何だか報われないもので
戦いは旧幕府軍の連戦連敗、流石に皇家相手となると手出しもできなくなり、最終的には徳川慶喜の江戸城逃亡をもって京阪は新政府軍の手中に、戦いの舞台は江戸、北陸、東北、函館と北上していきます…
起きてます…? あ、おはようございます…
まあ、そんな幕末の動乱と戊辰戦争の幕開けを盛大な脱線と共にお話しましたが…
このあたりはややこし過ぎて、自分でも正直あまり整理はできていません!( (
それっぽくまとめだけなので、一つの解釈程度に思っていただければ
ざっくりまとめますと、
・外国襲来の危機により、存続派と倒幕派に分かれる
・しかし、倒幕派に鞍替えした薩摩藩とパワーアップした長州藩が手を組んで形勢逆転
・できるだけ穏便に済ませたい坂本龍馬・中岡慎太郎が将軍慶喜に政権の返還を勧め、大政奉還実行
・せっかく隆起したのに攻める大義がなくなった倒幕派は、王政復古の大号令・小御所会議で慶喜を追い出す
・結果、倒幕派が勝利に新政府の樹立
・気がついたら7000文字超えてる
そんな感じですかね
(5桁行く前に終わらせておきたいですね)
正直、受験のときでもここはいまいち落とし込めていなかったもので(
(入試に幕末出たらやばかった。出たけど)
そんな明治の激動がここに眠ります
この辺りは江戸時代を思わせるような光景が広がっています
6月は紫陽花の時期でもありますね
紫陽花を眺めながら、川沿いを散策
坂本龍馬とお龍さんの像
薩長同盟を結んだ後、伏見奉行に襲われます
入浴中にいち早く気づいたお龍さんがまっぱで危機を知らせたのは有名ですかね
十石舟
淀川と繋がっているので、昔は大阪~伏見の物流、旅客輸送に使われたそうで
旅館寺田屋
島津久光が公武合体策をもって上洛した際、ここで薩摩藩の存続派と倒幕派の同士討ちが起きました(寺田屋事件・寺田屋騒動とも)
結果としては島津久光が派遣した存続派が倒幕派を打ち破ったので、存続派からの厚い信頼を得たとか
竜馬通りの名を冠した通り
寺田屋事件に由来するのでしょうか
ゆるり紅白
「カッコいい自転車どすなぁ、高速道路走ってるとこ似合いそうやなぁ」とは言わないそうで(酷い偏見
幕末の動乱ゆかりの地を少し散策した後は、新高瀬川沿いを北上し、とある踏切へ
特に前調べはしていなかったのですが、結構良さげだったので暫し撮影
形式?分からん
青ひげ付けたしまさん
やたらゆっくり徐行していました (オッソーイー! CV:佐倉綾音)
反対側もまあ撮れるかな
すっかり見なくなった旧塗装スズメバチ
当時は新塗装の運行どころか、プレスすら出ていませんでしたね
伏見~竹田の高架区間がちょうど終わるカーブですが、まあまあ有名な撮影地っぽい?
そもそもあまり熱心に撮り鉄やってないんで、王道撮影地もほとんど知らないわけですが…()
ここから京都市営が地下に潜ります
京都駅までずっと並走して走りますが、運賃は京都市営の方が高いという罠
鴨川を渡る近鉄京都線
ここから先は、終点まで高架続きです
京都市営の廃バスですかね
今の時期、たくさん廃バスいそう
油小路通を北上して、またまた京都へ到着
(中書島から既に京都でしたが)
今回は2度脱線もしましたし、ここまでと致しましょう
次回は… 終わるかな…? どうだろ
まあ、時間がかかりそうなところは今回済んだので、あとは適度に鉄分を補給しつつ洛中を縦横無尽に駆け回るだけでしょう
次回の更新はいつかなぁ
いつだろ
一番怖いのは更新する暇がないのが正しいあり方ってこと
次回にも乞うご期待!
では、以上